「じぶんの価値観や妄想、空想をそのまま外に出すのは、まだ怖い」 絵本作家・犬山シロのインタビュー

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絵本作家の犬山シロさんと絵本の図書館『めいちゃんち』副館長のあおちゃん

 

「らくがきのできる絵本の図書館を作る!」

オーダーメイドの絵本作家・犬山シロさんがそう宣言したのは今年の2月頃。
それから図書館の開館に向けて動き回る様子が連日伝わってきて、あれよあれよという間に、らくがきのできる絵本の図書館『めいちゃんち』が5月のこどもの日にオープンしました。

 

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らくがきのできる絵本の図書館『めいちゃんち』の手作り本棚など室内風景

 

絵本の図書館を作ろうと決意した経緯は、【前編】の「こどもたちのちいさな妄想や空想を実現できる図書館をつくりたい」絵本作家・犬山シロのインタビューからどうぞ。

 

この【後編】では、「好きだったけど嫌いになった」「自分の価値観をまずはよいしょって横に置く」「まだ、怖い」などなど、オーダーメイドの絵本作家・犬山シロさんをもう少し掘り下げて書いています。
最後には、犬山さんオススメの絵本Best3も紹介していますので、ぜひ絵本選びの参考に!

 

撮影:安藤史紘

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副館長のあおちゃんも読書中

 

── 絵本とか自分の妄想とか空想はずっと好きだった?

 

好きだったけど嫌いになった。
色々とあったから、絵本のせかいを恨んでいた時期もあった。
ひとと違うことを考えてしまう、思いついてしまう自分が嫌だった。

 

── 違う発想になっちゃうのはなんでだろうね。

 

それは絵本のせいだと思ってる。
こどもはお気に入りの絵本を何度も読んでって来るんだけど、わたしの場合は、毎日違ったんだって。
次これ次これって毎日違う絵本を30冊ぐらい。
だから、これ好き!みたいな絵本はなくて、この世界が見たい!この世界も見たい!という性格だったらしいよ。
その分、アイデアとか発想とかの蓄積量もあって、多種多様になってて、隠そうにも隠せなくて、ピロって出た妄想や空想が周囲の反感を買っちゃった。

 

── 巨人の妄想はすごく好きだったよ。

 

巨人のこと

犬山シロさん「巨人」の妄想@facebook

 

あー、巨人の話ね。
一時期、巨人の中に住んでいるってすごく思ってたんだよね。

 

── なんで巨人なんだ………。

 

なんか、すべてその巨人の中で起こっている範囲のことならば、ある種幸せなんじゃないかと思ったんだよね。せかいは。
巨人のせいにできるっていうか。
巨人っていう得体のしれない誰も勝てないモノのせいにできるからこそ人は幸せになれる、人は幸せに思うんじゃないかって。

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── “大人と子ども”についても聞いてみたいと思ってて。やっぱり子どもであることは大事?

 

こどもであることは大事………。

 

── あるいは、子どもの部分を持ち続けること。

 

それは大事。

 

── それは犬山さんにとって?それとも一般論としても大事だと思う?

 

わたしにとっては、こどもでいることが大事。
一般論で言うと、フラットでいることが大事。
フィルターがかかってない状態。色眼鏡がない状態。

 

── 偏見とかってこと?

 

偏見とか価値観とか。
価値観って偏見にもなると思ってて。
自分と違うひとが現れたときに、自分の価値観をまずはよいしょって横に置ける力が大事だと思ってる。
横に置いてから、そのひとと向き合ってみる。

 

── 難しそうだな。

 

そう、難しいと思う。

 

── 犬山さん自身はできる?
あ、そもそも大人じゃないのか。

 

そう、そもそも固定の価値観がない。
これが正しい!こうしなきゃいけません!みたいなものはない。
臨機応変にやっているタイプ。

 

── それが、子どもの良さなのかな。

 

こどもの良さだと思う。
だから、こどもはおとなたちが行ったことのない路地裏を見つけられるし、秘密基地みたいなものを作る能力があるんだと思う。

 

── 公園の生い茂った草木を見つけて、固定観念でただの草木だと思わずに、「おお、家だ。住めるじゃん」ってフラットに物事をとらえて、秘密基地を発見できる能力…。

 

それでいうと、うちの空間では、ここ。

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この隙間はわざと作ってるの。
「なにここー!」って言って、ここに飛び込んでくるのはこどもしかいない。
だから用意しているの。クッションも置いて。

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── オーダーメイドの絵本作家としては、これまで何冊作ったの?

 

わかんない。数えてない。データで残ってもないし。
急いで作っても1冊作るのに3ヵ月くらいかかるの。

 

── 自分の発想力やアイデアに対する自信がある?

 

発想力やアイデアに自信はないんだけど、それをカタチにすることには自信がある。

 

── え、そうなの?なんで?

 

それは周りにいる友達がすごいから。

 

── 何かモノを作る上でってこと?

 

何かモノを作ったり何か物事を発想したりする上で。
基本的に、私の友人が全員集まれば解決できない問題はないと思ってる。

 

── できるんだからやろうよってこと?

 

そうそう。
自分自身に価値はないんだけど、自分のまわりにいるひとには価値があると思ってる。
だから、わたしがゴミみたいなアイデアを出して、それをカタチにする友人がいて、それを受け取るひとたちがいて、結果として、そのひとたちの為になっていた。
そして、なぜか感謝されてびっくりしたっていう流れ。

 

── そういう経験がある?それこそオーダーメイドの絵本が最初?

 

オーダーメイドの絵本が最初かな。
わたしの考え方やアイデア、発想、物語を友人がストーリー立てて絵にしてくれて、一冊の本になって、誰かの課題を解決する。
『coco』っていう絵本があったからかな。

 

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依頼主にとって大切なひとの誕生日プレゼントとして作った『coco』

 

── 大学からオーダーメイドで絵本を作り始めたという話だけど、それは解決すべき問題があって、その解決手段として絵本が必要だったの?

 

オーダーメイドとか誰かの課題解決のツールとしての絵本だったら、自分の妄想や空想をちょっと混ぜれるかもしれないっていう感じ。
正直、自分の妄想や空想を素っ裸のまま外に出すことにまだ怖さがある。

 

── 人に見せるのはまだ怖い?

 

怖いね。すごい怖いね。むっちゃ怖い。
「絵本作家やってるんですよね、作品ないんですか?」って言われても、見せない。
っていうか、見せれない。
「そのひとだけの一冊っていうコンセプトで作ってるんで、見本ないんですよ」って。

 

── お客さんに見せることは怖くないの?

 

お客さんに見せることは怖くない。
そこには課題があるから。

 

── 課題があるし、課題解決しているという自信がある?

 

あなたの課題に対するソリューションですっていう提供の仕方をしているから。
わたしの空想ですっていう提供の仕方はしていないわけ。
そこ、逃げてるの。ふわっと。
そんな中にわたしの妄想とか空想とか価値観とか、ちょっとずつゴマ塩程度に入っているんだけど、理解されなくても仕方ない程度。

 

── オリジナルの絵本を自分ひとりだけで作ることはできる?技術云々ではなくて、感情として。話を聞いていて、なんとなく、犬山さんが誰かと一緒にモノを作る理由は、自分ひとりで作ることが怖いからなんじゃないかなって思って。

 

うんうんうん、そうね。
自分ひとりで作ることはできると思うけど、絶対に誰にも見せない。
人間関係でいうと、人にはすごく守りたいモノが絶対にあると思ってるの。
それはあって当然だと思ってるし、ちゃんと大事に箱にしまって、鍵かけとけよって。
だから、相手がすぐ本音を言ってくれる関係になってくれるとは思わないし、相手の言葉の裏にあることを考えるし、ちゃんと分かり合える関係を築くには時間がかかるモノだと思ってる。

 

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絵本作家の犬山シロさんと絵本の図書館『めいちゃんち』副館長のあおちゃん

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── 最後に、犬山シロさんオススメの絵本Best3は何ですか?

 

まずは、スイミーでしょ。

 

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『スイミー』のあらすじ:
小さな黒い魚スイミーは、兄弟みんながおおきな魚にのまれ、ひとりぼっちに。
海を旅するうちに、さまざまなすばらしいものを見ます。
そして、再び、大きな魚に出会いますが…。世界中で翻訳され、日本でもロングセラーを記録しているレオ=レオニの代表作です。

 


うーん、でも、悩むなあ。
正直、『ぼくはカメレオン』が一番いいんだよ(笑)

今だったら…、『ルリユールおじさん』と『ジャリおじさん』を選ぶかな。

 

── どういうところが好き?

 

『ルリユールおじさん』は、なんだろう、消費されていない感覚。
壊れたら捨てないで直すという物語。
そういうところがわたしにとって大事なんだよね。

 

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『ルリユールおじさん』のあらすじ:
【わたしも、魔法の手を持てただろうか】
たいせつにしていた植物図鑑がこわれてしまった、パリの少女ソフィー。
本をなおしてくれる人がいると聞いて、ルリユール(製本職人)を訪ねる。
本への愛情と、時代をこえてつながる職人の誇りを描いた傑作絵本。

 

「いやいや、それは買いたくても買えないものなんです」みたいなものを持っているひと、ひとつでもそういうものを持っているひとは、素敵だなって思う。
それは絵本じゃなくてもいい。車でも家でもお守りでもいい。
そのひとの歩みっていうか、人生を見守っている何か。
そういうものを持っているひとは素敵だと思う。

 

── 『ジャリおじさん』は?どういう絵本?

 

………何もない絵本。

 

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『ジャリおじさん』のあらすじ:
現代美術の旗手、大竹伸朗が不思議な絵本を作りました。
鼻の頭にヒゲのある(!)ジャリおじさんの冒険物語。
長い道を歩いていくと変なことが起こるのです。ナンセンス絵本の傑作。

 

── ………読んでもらうしかないね(笑)

 

そう、読んでもらうしかないの(笑)
何もない絵本だから、いつ読んでも感想が変わるし、いつ読んでもおもしろいと感じる。
これはもうほんとにすばらしい絵本だと思ってる。
何もないから、いい絵本なんだと思うんだけどね。

 

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【編集後記】
才能ってなんだ?と、考えることがある。
1を知って10を理解するとか足がバカみたいに速いとか色々あると思うけど、「1+1」という大前提に、なぜか(+■)を混ぜ込んじゃって、「2+■」と答える能力は才能だと思う。 

理性では説明し切れない“物語”(2+■)を無意識のうちに生み出してしまうという能力。
1+1」の答えが「2」だなんて、想像通りでいまいちテンションが上がらないし、勉強するなり努力をすればたぶんその答えに辿り着ける。
でも、を生み出す能力は、努力ではきっと手に入らない。

そして、僕は、このブラックボックス(これ→)がたまらなく好きだ。

「1+1は2だ」って言ってるのに、このは、そんなこの世界の大前提を、無邪気に愉快に時折切実にぶっ壊して進んでいく。
愉快だよ、それに爽快だ。脳天そのものをバットで思いっきり打ち抜かれるような清々しさ。「いいぞ、もっとやれ」ってニヤニヤしながら言いたくなる。  

大真面目な話で、
は、つまり、その人が積み重ねてきた経験そのものであると思っている。
だからこそ、それは、この世界の清濁を飲み込んだ何かであり、そのかけがえのなさにどこか切なさが感じられる。  

愉快だし、切ない。  

泣きながらでも、笑うような、そういう感情。
泣きながらでも、立ち上がるような、そんな感覚。

僕はそういう感情を“感動”と呼ぶし、そういう存在を、こどもの頃から憧れている“ヒーロー”の姿と重ね合わせている。

大事なことなので2回言いますが、
だから、僕は、(2+■)がめちゃくちゃ好きなんだ。
そして、みんな心のどこかでそういう存在を待ち望んでいるんだと思う。(たぶん。そうだといいな)
だって、ヒーローってそういうもんだから。

 

なので、

だからこそ、

あなたの絵本が読んでみたい。

って、そう思うわけです。

 

では、以上。


犬山さんがfacebookに投稿していた『スイミー』に対する再思考(最新Ver.)があったので、最後に引用して終わります。

【つづき】
スイミーは、やっぱり孤独でした。
黒い身体を生かして目になり、みんなの命を救ったとしても、 結局スイミーはどこまでいっても赤色にはなれないのです。ほんとうは少しだけ、みんなと同じであるということに羨ましさを感じるのでした。
赤い魚たちと別れ、スイミーはまた暗い海のなかを泳ぎます。 海藻のジャングルをやっとのおもいで抜けたとき、スイミーは見たことのない魚に出会いました。
黄色い魚、紫の魚、ピンクの魚。
その魚たちもひとりで暗い海のなかを泳ぎながら、大きなマグロに怯えていたのです。
スイミーは言いました。
「ぼくが、めになろう」
魚たちは身を寄せ合って、大きなカラフルな魚になりました。
マグロは、初めて見る得体の知れないカラフルに怯え、逃げて行きました。
スイミーは、孤独と少しだけ仲良くなれたような気がしました。
おしまい。

 

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c0a9e637-5816-48d7-933f-ca9e4c384f1913絵本の図書館『めいちゃんち』

巣鴨にある築70年の古民家を改装・開放したらくがきのできる絵本の図書館。

【住所】東京都豊島区巣鴨1-20-4
JR山手線「巣鴨駅」南口より徒歩3分
【開館日】毎週土日
10:00~17:00(こどもの部)
18:30~(おとなの部 ※不定休)
【貸し出し】絵本の貸し出しはおひとり様2冊まで(2週間)※図書カード発行につきデポジット500円https://www.facebook.com/meichanchi/
http://1234coco-artbooks.jimdo.com/

「こどもたちのちいさな妄想や空想を実現できる図書館をつくりたい」 絵本作家・犬山シロのインタビュー

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絵本作家の犬山シロさん

 

「らくがきのできる絵本の図書館を作る!」

オーダーメイドの絵本作家・犬山シロさんがそう宣言したのは今年の2月頃。
それから図書館の開館に向けて動き回る様子が連日伝わってきて、あれよあれよという間に、らくがきのできる絵本の図書館『めいちゃんち』が5月のこどもの日にオープンしました。

 

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らくがきのできる絵本の図書館『めいちゃんち』の手作り本棚など室内風景

 

依頼主にとっての、たったひとつの絵本を作ってきた犬山シロさん。

「絵本に描いてあることは、空想でも妄想でもなくて現実にできることなんだよってことを証明したくて」と、彼女は言いました。

 

子どもの頃は、絵本のような妄想と空想の世界で遊んでいて、現実との区別もつかず、それが原因で絵本が嫌いになっていた時期もあったという。

それでも、絵本大好き!な妄想少女はすくすくと成長し、大切な友人たちにも囲まれて、
いよいよ、絵本の世界を現実にしてやろうと企んでいます。

 

「絵本の世界を現実にするんだ!」ってだけでもワクワクする物語なのに、色々と話を聞いていると、絵本というモノが持っている“手放しちゃいけない何か”が見えてきて、「これは絵本というモノにいまいちど立ち戻りたくなるような素敵な話だし、なによりも、どこか切実感があって僕好みだぞ」と思って、勢い余って大真面目にインタビューを申し込み、このような記事を作りました。

 

インタビュー記事は、【図書館編】と【犬山シロ編】に分かれています。

【図書館編】:「こどもたちのちいさな妄想や空想を実現できる図書館をつくりたい」絵本作家・犬山シロのインタビュー

【犬山シロ編】:「じぶんの価値観や妄想、空想をそのまま外に出すのは、まだ怖い」絵本作家・犬山シロのインタビュー

「図書館ができるまで」「犬山シロのいまむかし」「絵本ってそもそも」「こどもとおとな」などなど、絵本の図書館『めいちゃんち』と犬山シロさんを軸にして、なんだか色々と盛り込んでます。

 

「子どもの頃は、どんな絵本を読んでいたかな?」と思い出を振り返り、立ち止まりながら、読んでいただけると嬉しいです。

 

撮影:安藤史紘

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らくがきのできる絵本の図書館「めいちゃんち」の室内風景と、副館長のあおちゃん

 

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絵本はせかいでした。
小さい頃からずっと絵本を読んでいたから、絵本の世界、妄想や空想の世界と現実との区別がつかなくなってたの。
こどもの頃は、そういう女の子だった。

 

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子どもの頃の犬山シロさん

 

例えば、
お父さんをめっちゃあやしいなと思ってた。
絶対こいつはどっかの国のスパイなんだって。
だから、いつかわたしは殺されるってほんとうに思ってたの。
銃を持って追いかけられる夢を見るくらい、お父さんのことを疑ってた。
仲良くしつつも、実はこいつ裏ではスパイなんだろう、みたいな。

 

── 怪しい行動でもしてたの?

 

いや、わかんない。
なんかね、別の何かと混同してたんだと思うんだけどね。

あとは、三日月を見て、
「あのバナナを取って!」みたいなことを言ってた。
まあ、おかしいじゃん。
「あのバナナを取って!取って!」ってねだるこどもって。
「あれは月だぞ」って言ってるのに全然言うことを聞かないこどもに対して、ふつうは怒ったり、「あれは月だからバナナじゃない」って説得をする。
だけど、うちのママがまたおもしろいひとで。
バケツに水を張って「じゃあ、お前掴んでみろよ。やれるもんならやってみろよ」って。
それをやったときに初めて、この世の中には掴めないモノがあるってことを知ったの。

 

── そういうことに初めて気が付いた。

 

そう、掴めないモノが世の中にあるんだという発見があったの。
こどもの頃から、おかしいこといっぱい言ってたんだけど、お母さんはずっと向き合ってくれてた。

 

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おほしさまもぐもぐ

ちいさなあくま

犬山シロさんの妄想たち@facebook

 

でも、そういう妄想や空想を口に出してしまっていたから、
「なんかシロちゃんって変だよね」「変わってるよね」
みたいなことはずっと言われてた。
けっこう喋る性格で、妄想や空想の世界を現実だと思って言っちゃうから、上手くコミュニティに馴染めなかったのね。
しかも、すごいド田舎でずっと同じコミュニティで過ごしてきたから、いちど「この子変なんだ」って思われて、変人シールを貼られるとずっと変人でいなきゃいけない。

だから、
わたしにとって“普通”が、敵だった。
「普通じゃない」って言われるから。

体育祭とか文化祭とか修学旅行とかにも参加したことがないの。

 

── 授業は?

 

授業は出てた。
だけど、ほんとに盲目的に勉強するだけで、それが逃げ場みたいな感じだった。
だから、頭はよかったよ。頭だけよくて、それも反感買ったんだけど。
小学校・中学校は勉強だけして、高校は進学校に行こうって決めてた。
そこに行けば、コミュニティが変わる。
だから、受験勉強をがんばって、それで進学校に入ったの。
それからは友達とかコミュニティとかちゃんと出来始めて、生徒会をやったりするぐらいまで成長していった。
このときに、努力したりがんばったりすれば未来は自分で切り開けるっていうことを学んだから、なんか、折れない芯がひとつ出来あがったんだと思う。

小さい頃から、“普通”っていうことが羨ましかった。
何ごともなく馴染めるひとが羨ましかったし、
頭がいいってだけで馴染めるひとが羨ましかったし、
スポーツできるってだけでコミュニティに囲まれるひとが羨ましかった。

大学で初めてできた友達にそういう話をしたときに、
「その話おもしろいね。絵が浮かんだよ」って言ってくれて、
頭の中にあるゴミだと思ってた妄想が、ストーリーとして絵本になったの。
ほんとうにうれしかった。
それが最初の作品で、『ぼくはカメレオン』という絵本。

 

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犬山シロさんの最初の絵本『ぼくはカメレオン』

 

そのときに思ったことは、
妄想とか空想とか価値観みたいなモノがカタチになるんだっていうこと。
自分の妄想をゴミだと思ってて、自信も持ってなかったけど、そのゴミが価値になるってわかった瞬間に、「ああ、これはもう絵本作家やろう」って決めたの。

 

── 妄想とか空想とか、自分の世界を再現するために?

 

わたしは、自分のせかいを具現化するツールが絵本だと思ってる。

でもね、なんかね、これはわたしだけのことかもしれないけど、
こども向けの絵本をかくときは、
すごーーーく、こどもたちを騙している気分になるんだ。

せかいは、ほんとうはそんなにやさしくないのに、
絵本の中では、やさしいふりをしたり、うそなのにほんとのふりをしたりする。
それが、おとなになったときに絵本を読み返すと、回って回って解釈にストンと落ちてしまう、理解してしまう。
「あー、そういうことか」って。

だからね、わたしの図書館では、
そんないつかうそになってしまう絵本でも、
いま、現実にできるんだってことを証明したくて、
「絵本に描いてあることは空想でも妄想でもなくて、現実にできることなんだよ」
ってことを証明したくて、
おとなのスキルを掛け算することで実現させようとがんばってみたいの。

 

── 大人のスキル?

 

例えば、
彼女のような絵が描けるというおとなのスキルがあれば、頭の中に眠っていたゴミがカタチになる。
それがおとなのスキルを掛け算するってことで、図書館のコンセプトにもなっている。

 

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『めいちゃんち』こどもたちの妄想×おとなのスキルのイメージ

 

例えば、
『100階建てのいえ』っていう絵本があって。
こどもの頃は、住みたい部屋とか家とかって結局自分で決められないよね。
お父さんたちが家を買ってきて、お母さんたちがレイアウトしちゃう。
でも、もしかしたらティッシュ箱の中に作った理想の部屋が実現できるかもしれない。

あとは、『ミッケ』という絵本。
『ミッケ』は理想のせかいを詰め込んだ絵本だなと思ってて、
キャンドルアーティストと掛け算して、キャンドルで自分の理想のせかいを色も混ぜながらコネコネして、それをみんなで灯すことによって、いろんなせかいが生きているよねという可視化みたいなことができるかなって思ったり。

 

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イベント「ぐりとぐら、スイミーをモチーフにしたキャンドルをつくろう!@めいちゃんち」の制作風景

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イベント「ぐりとぐら、スイミーをモチーフにしたキャンドルをつくろう!@めいちゃんち」で完成したキャンドルたち

 

「実現出来たらいいなー」とか「これ美味しそうだなー」みたいな
こどもたちのちっちゃなアイデアと、おとなたちの持っているスキルを掛け算すれば、絵本のせかいは絶対に実現できると思ってて、その場として図書館を作ろうかなって辿り着いた感じ。
妄想や空想は実現できるってわかったから、こどもにとって、そういうおとながいるということは大事だなって。

 

── そこをちゃんと伝えていきたい?

 

伝えたいっていうよりは、実感してほしいなって。
「あのイベントおもしろかった」とか何かを作る楽しさとか、今はそういうことを感じてくれるだけでもいいの。今はね。
だけど、おとなになったときに、こどもの頃のあの経験が、今の、この価値観に繋がってんだなってことを思ってくれたら嬉しい。

 

── 絵本じゃん、それ。

 

そう、絵本。
おとなになって読み返したときに、
昔読んだときと価値観がちょっと変わってることに気がつく。
そんな絵本みたいな瞬間が図書館でもいつか起きたらいいな。
成果物は期待してないの。
種をいっぱい播くという仕事がしたい。

 

── 『ルピナスさん』もそんな感じだよね、きっと。

 

『ルピナスさん』もそうだね。そんな感じだよね。

 

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『ルピナスさん』のあらすじ:
「世の中を、もっと美しくするために、なにかしてもらいたいのだよ」
ルピナスさんは、海をみおろすおかのうえにある、小さないえにすんでいます。いえのまわりには、あおや、むらさきや、ピンクの花が、さきみだれています。世界中を旅行したルピナスさんは、おじいさんとの約束をはたすためにステキなことを思いつきました。

 

── まずはルピナスさんが行動して、そのあとにみんながルピナスさんの植えた花に気付いて、そのうち子どもたちもきっと何かに気付いて「世の中を美しくする」ことをし始める。そして、世界が美しくなっていく。

 

そうして、初めて、ルピナスさんっていう人が認められる瞬間が来る。
変なおばさんってずっと思われてたんだけどね。

 

── 絵本ってすごいね。期間がめちゃくちゃ長い。

 

そう、長い。木を育てる感覚。

 

── 場合によっては、人生の最後に、その人が気付くかもしれない。

 

でも、わたしはその瞬間に立ち会えないけど、いいのそれで。

 

── 切ない。


けど、そういうもんなんだろうなって思ってる。
何かをするということは。
成果物の見えない仕事。
だから、奥が深くて、いいなーって思う。

 

── やっぱり長く残ることは大事?

 

消費される感覚が嫌なの。
消費するってことはいつかなくなるってことじゃん。
それが嫌なの。

 

── その人の中から?

 

その人の中から。

 

── もっと残ってほしい?

 

もっと残ってほしい。

 

── そこに魅力を感じるのはなんでなのかな。

 

そこに魅力を感じるのは、
みんな、絵本を読んで育っているから。
その歴史みたいなモノをなかったことにしちゃダメだと思っている。
なかったことにしちゃダメというか、なかったことにしちゃったらかわいそう。その歴史たちが。
その歩んできた道のりが、忘れられちゃうのがかわいそうって思っちゃう。
すごくさみしくなる。

だから、こどもの頃に読んだ絵本は取っておいてほしいのね。

 

── 絶対に影響してるよね。表面の物語じゃない、その奥にある物語が絶対に染みついてると思うんだよ、絵本って。それは同時に怖くもあるんだけど。何を読むかで決まっちゃうから。

 

そう、何を選ぶかで決まる。
だから、お母さんやお父さんのセンスが問われてくると思う。絵本はね。
大事なモノとか価値観の形成は、絵本が種をまいて、経験が水をやって、その再思考が花を開かせているのかなって。
なんでこんなこと思ったんだろう?
なんでこの絵本が好きだったんだっけ?
って考える瞬間が、やっと納得感を芽生えさせる。

 

── 回って回って解釈に落ちるってこと?

 

絵本のなかのことばたちは、ストレートに見せかけて、ほんとは回って回って解釈に落ちるのが醍醐味なんだけどなー。
こどもの頃に読んでた絵本をおとなになって読んでみたら、「見方が変わってた!」なんていう名作も多い。

 

── それでいうと、経験の質も大事になってくるよね。

 

そう、質は大事だと思う。あとは、“問い”も大事。

 

── 花を咲かせるためには。

 

その再思考ができた絵本は、そのひとにとって大事な絵本になる。

 

── なるね。そりゃなるよ。自分の根本にあるんだもん。それに気付いちゃうんだから。

 

そうそうそう、それが回って回って解釈に落ちるってことかもしれない。

 

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「回って回って解釈に落ちる」

不思議な言い回しだなーと思いつつ、それはどういうことなんだろうと最初は疑問だった。
でも、何かが宙をくるりくるりと回って、ストンと人間の中心(つまり、腑)に落ちるイメージは、まるで魔法使いが踊りながら杖を振るような愉快さがあって、それでいて大切なモノはどうしても一度や二度じゃ手に入らないんだなーという寂しさもあり、理解できずともなんだか素敵な語感だとそう感じていた。

そんな折、犬山シロさんがfacebookで『スイミー』についての投稿をしていた。
『スイミー』という絵本の中に彼女の歴史が積み重なり、『スイミー』という絵本が彼女にとってより大切なモノになっていく光景が確かにそこに存在していて、「これが“回って回って解釈に落ちる”ことなのかもしれない」となんだか嬉しくなった。内容は切なすぎるけど。

せっかくなので、犬山シロさんの『スイミー』についての投稿をそのまま引用する。

【ぼくが、目になろう】
そう言って、スイミーは赤い魚たちをまとめ、大きな魚に立ち向かいました。
子供の頃よんだときは、スイミーのその勇敢さに少しの憧れと、みんな同じでなければならない、仲良くしなければならないということに恐怖を覚えた絵本でした。海のなかでそんなことが展開されてたなんて怖くて仕方なくて、地上ですら息しにくいのに海中も大変だなと思ったのを今でも覚えてる。
いま、図書館PJをやってみて少しおとなになったわたしがスイミーを読むと、こころの奥底の深いところで噎び泣きたいのを堪えたくなる。
スイミーは、孤独だ。誰かの目になれたって、それでその他大勢が救われたって、ほかのひとと色が違うだけでスイミーはどこまでいってもひとりなんだ。
ひとりだから、知恵を絞って、かしこく、存在意義を自ら見出さなければならない。目になることでしか意義を見つけられなかったスイミーを、わたしはいとおしくも切なくも感じていて、
いま、こころの奥底でわんわんと泣き出したいのを堪えている。
ことばをひとつひとつ、積み木みたく並べるように、
もっと、より、ふかいところでおしゃべりがしたい。
だって目になれなかったスイミーは、海藻のジャングルの影で気泡相手にことばを尽くそうとしているのだから。

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── 5月に『めいちゃんち』はオープンしたわけだけど、今後はどうしていきたい?


図書館としてありたい姿と、巣鴨に図書館を作った意味としてありたい姿という2つがある。
まずは、こどもたちの小さなアイデアをちゃんとカタチにしてあげることができる図書館でありたいなって思ってる。

なので、『めいちゃんち』では、こども委員会を発足します!

 

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イベントは、こども委員会で内容決議してやりたいかやりたくないか決めて、こどもからおとなに逆オファーする形を取ろうと思う。
わたしはそこに全力で伴走する。
土台となる構想は、委員たちと話し合いながら練る。

あと、巣鴨の中での立ち位置としては、巣鴨のベンチになりたいの。
ベンチは何か用があって座るもんじゃなくて、なんかちょっと空いてたから座ったり、ちょっと疲れてたから座る。
今って、ベンチみたいに、ホッとなんのようもなく落ち着ける場所が少ないなと思ってる。

 

 

【後編】続きはこちら:「じぶんの価値観や妄想、空想をそのまま外に出すのは、まだ怖い」絵本作家・犬山シロのインタビュー

 

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c0a9e637-5816-48d7-933f-ca9e4c384f1913絵本の図書館『めいちゃんち』

巣鴨にある築70年の古民家を改装・開放したらくがきのできる絵本の図書館。

【住所】東京都豊島区巣鴨1-20-4
JR山手線「巣鴨駅」南口より徒歩3分
【開館日】毎週土日
10:00~17:00(こどもの部)
18:30~(おとなの部 ※不定休)
【貸し出し】絵本の貸し出しはおひとり様2冊まで(2週間)※図書カード発行につきデポジット500円
https://www.facebook.com/meichanchi/
http://1234coco-artbooks.jimdo.com/

詩人:東田直樹

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跳びはねる思考——22歳の自閉症作家が見た世界

人の目に映る自分の姿を想像しただけで、

この世から消えてしまいたい気分になります。

僕が抱えている心の闇は、どんな魔法をかけても消えません。 by東田直樹

 

 

もしも、自分の意思に反して、身体が勝手に動いてしまうとしたら。


もしも、

“自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、

じっとしていることも、

言われた通りに動くこともできず、

まるで不良品のロボットを運転しているようなもの”だとしたら。

 

東田直樹という人の詩を知り、その人のことを知って、自閉症を知った。

詩人・東田直樹は、自分の意思に反して、一般的に「奇妙だ」と思われるような行動をとってしまうし、自分の思い通りに話すこともできない。そして、それを自覚している。残酷だと思った。

「私は不良品のロボットの中に閉じ込められているんだ!」という悲痛な叫び声を上げることも、泣きながら必死に助けを求めることもできない。透明で堅牢な檻に閉じ込められてしまったがゆえに誰にもその声が届かないかのような絶望感。何度も何度も、血が出るほどに、その透明な壁を両拳で叩いて音を鳴らそうとも、外側にいる人たちには決して届かない。

それが自閉症を知ったときの私の印象だった。

 

 

自閉症の僕はいつも、視線に踊らされています。人に見られることが恐怖なのです。人は、刺すような視線で僕を見るからです。
障害を抱えているために、目に見える言動が、みんなとは違うせいでしょう。まるで原始人のようだと、自分でも思っています。
理性で感情をコントロールし、会話によって思いを伝え合う現代社会は、僕にとって異次元に迷い込んだかのような世界です。by東田直樹

 

それでも、東田直樹は、声ではなく文字によって、詩や絵本を通じて、自分の感覚を言葉にしている。

それが、詩人であり、絵本作家であり、自閉症でもある東田直樹というヒーロー。

 

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跳びはねる思考——22歳の自閉症作家が見た世界

新幹線に乗っている時の雨は、とても神秘的です。
「横殴りの雨」という表現がありますが、横一線に流れる雨粒が見られるのは、新幹線に乗った時だけではないでしょうか。

それだけ早いスピードで移動しているからだと理屈ではわかります。
けれども、僕にはこの雨が、特別なメッセージを伝えてくれているような気がしてならないのです。

雨は普通、空から地面に向けて落ちていきます。その時々で強さは違いますが、一定のリズムを持っていると思います。

僕は雨音が、時を刻んでくれていることに気づきます。そして、知らぬ間に数を数え始めるのです。体の中を突き抜けるようなリズムが耳にこだまします。

しかし、新幹線の窓を打ちつける雨に、リズムはありません。
まるで、人の涙みたいに、ぽろぽろとこぼれ落ちたり、さめざめと泣いたりするのです。

ひと粒ひと粒が、自分の意思で窓に張り付いてきたかのような動きで、僕の目を釘づけにします。
ただの雨粒なのに、それぞれが違う速さで流れ出したとたん、神様から命を与えられた存在に変るのです。

感動とは、自分が知らなかった世界を見せてもらえた時、感じるものなのでしょう。
泣いている人を励ますように、僕は新幹線の窓を見つめます。

雨は、まだやみそうにありません。
新幹線の窓は、濡れた瞳に似ています。

やがて、雲の切れ目から、太陽の光が差し込むと、外の景色がくっきりと現れました。

新幹線の窓にくっついていた雨は、もう全て消え去ってしまいました。
雨粒は、空に帰って行ったのでしょう。

新幹線の窓から見える空は、次々に形を変えて、心をなぐさめてくれます。

涙の訳をいつか教えてもらいたいと、僕は願っているのです。

「新幹線の雨」 by東田直樹

 

何かに感動するというあの感覚は、たぶん例えるなら、台本を知らずに演劇の舞台に立たされたとして「どうやって演じればいいのか」を教えてもらえたときの感覚に近いのかもしれない。舞台のど真ん中で、衆人観衆に晒された状態で、何をどうやって演じればいいのかわからず右往左往しているときに、舞台の袖からカンペが出されて自分の物語を演じられるときの安心感。

いや、そうじゃなくて、安心感なんてもんじゃなくて、もっともっと根源的な、出会った瞬間にそれにすがりつかざるを得ないような、どこか必死で泣きだしたくなるような感覚。

もちろんこれは単なる比喩なんだけど、どう振舞ってどう選択をすることが正解なのかなんてさっぱりわからないこの世界で、選択次第では“死”ぬかもしれないこの世界で、僕らはどうしたって不安感や恐怖感に押し潰されそうになる。人間というのは、根本的に、客観的に、意味のない世界で意味を求めてしまうから。

だから、腕の動かし方から笑顔の方法、愛の告白まで、人間はすでにある社会の振る舞いを模倣する。

台本とは社会であり文化であり常識であり宗教である。

人間は、正解のない不安と恐怖に満ちた世界で、「こうすればいい」という台本にすがりついている。

 

だとしたら、

であるならば、台本通りに振舞えない東田直樹は、一体全体何にすがりつけばいいのだろうか?

 

 

感動は、個人それぞれが直面する耐えがたい現実を生き抜くための、脳が生み出すフィクション(意味)なのだと思う。

現実とは違う場所にある何か。それは“希望”とか“理想郷”とか“天国”とかって言い換えてもいい。

個人にはフィクション(現実逃避)が必要だ。現実(ノンフィクション)に対する現実逃避。

IMG_5437-2漫画『プラネテス』より

 

例えば、

引きこもりでコミュ障(現実)のオタクがモテモテな男子生徒が主人公のアニメ(非現実)を好きになり、高度経済成長の終焉と共に安定企業も安定じゃなくなる(現実)と「フリーランス」や「ノマド」などのキーワードで別の働き方(非現実)が騒がれたり、映画『アメリカン・スナイパー』のモデルとなった米兵のクリス・カイルが人を殺したという現実に耐え切れずアメリカの正義(非現実)を信じたりする。

 

人間なら誰しも、大なり小なり、状況や周辺環境に応じた感動を持っている。生存戦略として。

他者を殺してしまった兵士は、人殺しを正当化してくれる“言葉”や“物語”にすがりつく。

戦場以外に人殺しを肯定する言葉はないからこそ、日常に帰還した兵士はPTSDを発症する。

そして、“言葉”や“物語”のある戦場へと舞い戻る。

 

現実の残酷さに対応して、不安や恐怖をやわらげる感動の度合いも深くなるし大きくなる。

敵(ヴィラン)が強ければ強いほど、ヒーローも強くなるみたいな、そんなイメージ。

 

つまり、

自閉症の人たちが生きている現実(ヴィラン)はどれほどだろうかと想像する。

透明な檻の中でどれだけ必死になって叫んでも自分の声は届かず、他人から“刺すような視線”で見られるという現実は、どれだけ残酷で凶悪なのだろうかと想像する。

そして、

なによりも、

東田直樹がすがりつける“言葉”や“物語”は、この世界にあるのだろうかと。

 

理性とは、善悪、真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識などを自分に与える能力だと考える方も多いかもしれません。理性的な行動が見られない人たちには、人間らしい心がないと、主張される方もいるでしょう。それでは僕たちのような人間は、生きていくことができません。by東田直樹

 

例えば、一般的な「理性」の概念(=言葉)によると、自閉症者は、人間ではないことになってしまう。

東田直樹は、人間ではないことになってしまう。

“言葉”や“物語”がないという問題。

この問題は、生きづらさを感じているLGBTの方々にとっての問題にも繋がってくるように思う。

 

通常は行動によって、その人が理性的であるかどうか判断されますが、理性というものは、生まれながらに一人ひとりの心の中に宿っているものだろ信じています。(中略)理性とは、行動を制御する力ではなく、どのような人生を送るのかの指針ではないのでしょうか。どれだけ悲しいことがあっても、自暴自棄にならない精神力ではないかと思うのです。by東田直樹

 

結論から言うと、

信じるに値する“言葉”や“物語”がないのなら、それを自分で作り上げるしかない。

私は、この行為・過程こそが“芸術”なんじゃないかと思っている。

脳が勝手に生み出した現実逃避(=希望)としての感動を、言葉にして物語にして作品にして、その輪郭線をよりはっきりとさせる行為。

 

しかし、そうすると、もはや想像を絶するわけだけど、

東田直樹は、一体全体どれだけの言葉や物語を積み重ねて、不安感や恐怖感を払拭できるような、すがりつける“何か”を生み出しているのか。

あるいは、どれほど深くて大きな感動(ヒーロー)を得ることで自分の生を肯定できているのかと。

 

東田直樹のような、自分にとっての感動の輪郭をより丁寧に探し求める芸術家は、きっと冒険家みたいなもんで(そして、本来なら、人間ならばきっと誰だって)、過酷な旅をひとりで歩んで、ボロボロになりながらも誰も到達していない“どこか”に辿り着いて、そこにあった“何か”を引っ掴んで、帰郷して、「こんなんありましたよ」って、この世界の清濁を飲み込んで、彼らが信じるに値する言葉や物語や作品を生み出しているのだと思う。自分自身のために。

 

僕にとっても、心に苦しみを抱えた状態は大変ですが、だからと言って辛いだけのものではありません。感情の渦に飲み込まれた瞬間、僕は僕でなくなります。助けてほしいと心の中で叫びながらもがき続けているのに、誰にも気づいてもらえません。最初は周りが見えなくなるほどの苦しみですが、次第に自分を取り戻すことができます。
この時の気持ちは、悩む前の僕とは違います。それは悲しみや苦しみがなくなったわけではなく、荒れ狂う海の中、自力で岸まで泳ぎ着き、そこから嵐が過ぎ去ったあとの穏やかな海を眺めている心境だからです。見渡すと、海の水がにごっていたり、漂流物が流れていたり、元の穏やかな海に戻るには、少し時間がかかりますが、僕は前と同じように呼吸しています。
(中略)
けれども、全てが元通りになることを強く望んではいけません。
刻々と過ぎていく時の中で、景色は常に変化しているからです。by東田直樹

 

だけど、私たちは人間だから、両親から生まれて、肉体があって感情があって、どうにも思い通りにならない世界を生きていて、最後は死ぬというところは変わらない。だから、私は、彼の苦しみの心境に共感できるところもあると思っているしそう感じているしそう信じたい。

一方で、感動は状況や周辺環境に適応して生まれるからこそ、人それぞれ違う旅になるし、違う“何か”を発見するし、違う“何か”になっている。荒れ狂う海を比喩として持ってくることに、それは私の中になかったモノとして、彼がより遠くまで行ってそこにあった景色を見てきてくれたんだという、感謝とか尊敬とか、あるいは、なんだか抱きしめたくなるような愛しさを感じます。

 

何かに感動したりとか何かを好きになったりとか何かに心がすがりついたりとか何かを信じたりするということは、根本的には自分で選べないという残酷さがあると思うんだけど、それでも、その何かに触れているときはどうしようもなく幸せだったりすべてを肯定したくなっちゃったりなんとなく居心地よかったり誰かにその感動を伝えたくなっちゃったりするわけです。

そういうのって突き詰めると結局どこかで世間とズレちゃってて「おいおい、不器用だな。しっかりしろよ」って思うけど、僕はそんな真面目で丁寧で無邪気でどこか必死で切ないようなスタンスそのものをまずはいちど愛したいと思っている。

現実に対して生まれる「そうせざるをえない。けど、なんか好きだ」というシンプルな感情はとても大切だと思うから。

ジャンヌ・ダルクやヘレンケラーを突き動かしたモノはこの人それぞれが持っている何かなのではないかと妄想したり期待したりもします。

こうあるべきだと誰かが言ったどうにもしっくりこない言葉なんかよりもこの感動という実感は遥かに強烈です。

 

「ペコ、いつも言ってた。
相手が強いほど高く飛べるって」
byアニメ『ピンポン』

 

敵(現実)が卑劣で理不尽で凶悪であればあるほど、ヒーローはいつだってそいつらに打ち勝つほどの正義(フィクション)を見せてくれる。

僕は、芸術家の姿に、少年漫画のようなヒーロー像を重ね合わせてしまいます。

だから、詩人・東田直樹もまた、僕にとってはヒーローのひとりなんです。

 

 

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じゃあなんでこんなエントリ書くよ。なんで時々日記じゃないこと書くよ。何故か。おれはこの世が少しでもおれにとって楽しい(「正しい」じゃねーぞ)場所になってほしくて書いているのだ。何人かはもしかしたらいるかもしれない。「うん、そこらへん気をつけて書けばもうちょっと映画評面白くなるかな」って考える奴が。そういう奴の存在におれは賭けてるんっだつーの。「個人の自由だと思います」とか抜かしている間は何も変りゃしねえ。いい言葉だな「個人の自由」って。たいそうなこった。くたばれ。おれはおれにとって読み応えのある文章がすこしでも増えてほしくてこういうことをやってるんだ。おれのためだ。世界がおれにとってちょっとでも楽しい場所になりゃ万々歳だ。あのな、おれは世界を変える気で書いてるんだよ、大袈裟に言えば。いや大袈裟じゃないか、ホン トの話だからな。スルーされない何人かに届いて、その人間が面白い文章をはてなで書こうとしてくれりゃおれにとっては大勝利なんだ。おれは明日死ぬかも知れないし、そういう「個人の自由ですから」なんておためごかしに付き合っているほど暇じゃねーんだ。もっともっとおれにとって面白くて興味のある文章が読みたくてたまらないんだよ。by(誰も信じるな – 伊藤計劃:第弐位相

素朴な疑問なんですが、人間はどうして感動するんだろうか?

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「息子の精神病を治してください」

ひとりの老人がそう祈るのを聞いてふと足を止めた。

それは去年、高野山に行ったときだった。高野山の奥の院、そしてそのさらに奥にある弘法大師・空海が眠る(入定する)御廟の前で。ひとりの老人が背中を丸めて両手を合わせて、弘法大師・空海に向かって、ずっと、ずっと、一生懸命に頭を下げて祈りを捧げていた。

「南無、弘法大師さま。今まで見守ってくださってありがとうございました。おかげさまで心臓の病気が治りました。どうか、息子の精神病も治してください」と。

何度も

何度も何度も

何度も何度も何度も

何度も何度も何度も何度も

何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

「お前に、他にすがるモノはねえのかよ!」とその細い肩を揺らし叫び出したくなるほどに、何十分もただただ必死になって祈るその老人の姿は、この世界の残酷さを感じさせ、それはどうしようもなく空しくて悲痛な光景だった。

 

不安を受け止めてくれる家族はいないのか?

あるいは、最先端医療はどうした?社会システムは?

…結局、神もサンタクロースも河童も、信じるか信じないかの問題で、「信じる者は救われる」だなんて言葉がごもっともすぎて苛立ちすら感じたけど、何もできずに突っ立っている自分なんかよりもよっぽど神の方が有意義だ。

 

奥の院でのそんな悔しさと無力感に包まれた記憶と実感を、六本木の森美術館で開催している『村上隆の五百羅漢図展』に行ったとき、ふと思い出した。

http://www.mori.art.museum/contents/tm500/

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というのも、ここ数年ほどずっと「人間はどうして感動するんだろうか?」ということを、ああでもないこうでもないと考えていて、今のところの結論として「何かすがりつきたいモノに出会ったとき、人間は感動する」という仮説が自分の中にあったからかもしれない。その「すがりつきたいモノ」っていうのは、「(現実はこうだけど)ああだったらいいのにな、こうだったらいいのにな」という“希望”や“憧れ”と言い換えることもできる。(だから、ドラえもんはスゴイのです)

人間は、すがりつきたい言葉や物語、イメージと出会ったとき、そこに感動を覚えるし、日々の趣味嗜好などもこの「すがりつきたいモノ」に依存しているのかもしれない(意識的にせよ無意識的にせよ)なんてことを、村上隆の『五百羅漢図』を事例として引っぱり出して説明しようっていうのがこの記事の魂胆です。

 

①そもそも「五百羅漢図」ってなに?「村上隆」ってだれ?

 

まず、医療もインフラもまったく発達していない時代において、死がより身近だった時代において、人々が希望を見出した存在(すがりつきたいモノ)のひとつが羅漢でした。羅漢は、釈迦の弟子として人々を救済する存在だったのです。それが五百人もいるんだから、さぞかし頼もしい存在だったに違いない。当時の人たちは、病気や天災という現実に怯えながらも、彼らならどうにかしてくれるのではないか、してくれるに違いない、という希望を抱いていた。

あの老人が弘法大使・空海に対して感じていた気持ちと、五百羅漢という存在に感じていた人々の気持ちは、きっと同じなのだろうと。

 

そして、もうひとつ、村上隆の芸術作品は、オタクにとってのすがりつきたいモノ、“アニメ・漫画”をモチーフとしている。

例えば、村上隆の代表作・過去作品には『ヒロポン』と『マイ・ロンサム・カーボーイ』というのがありまして、こういう日本のアニメや漫画をモチーフとした作品を発表することで、海外でも高い評価を得ている。

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『Hiropon』



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『My Lonesome Cowboy』

(※おいおいなんだかツッコミどころ満載じゃねえか…って思った方は、どうしてこうなっちゃったのかって調べてみてくださいね)

 

でも、同時に、日本国内のオタクたちからはむちゃくちゃ嫌われている。

村上隆のtwitterを見ていると、Disられている本人がその批判ツイートをエゴサーチしてリツイートしているので、その嫌われ具合がよーーーくわかる…のですが…

で、どうしてこんなに嫌われているのかっていうと、村上隆の作品は日本のオタクたちの(or に対する)戯画化(批評)であるからで、個人的に村上隆すげーって思うのは、戯画化した等身大フィギュアを制作することによって結果として日本人そのものを描き出した・表現した・浮き彫りにしたこと。正確に言うと、日本のオタク層ってことだけど。

つまり、これは曲解ですが、twitterなどで村上隆を批判するオタクたちの存在も含めて、ようやく『Hiropon』や『My Lonesome Cowboy』などのアニメ文脈の村上隆作品は完成するのだろう、と。

 

私の大好きなYahoo!知恵袋の質問で、本気で恋したキャラが二次元で、本気で悩んでます。 最初に恋したのは「NHKによう… – Yahoo!知恵袋という質問があるのですが、

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。
自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。
あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。
特にあの学校のシーンは反則です。自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

 

オタクにとって、アニメの世界は、すがりつきたいモノなんです。

だからこそ、そこに感動が、心を抉るようなむちゃくちゃ強烈な感動が生まれるのだと思います。

現実が厳しければ厳しいほど、アニメに限らず、小説や映画など現実逃避としての芸術作品は、誰かにとっての大切なモノ(すがりつきたいモノ)になりえる。(脳みそが勝手にシュミレーションする)耐えがたい現実によって、すがりつきたいモノ(希望や憧れ)は生まれる。

すがりつきたいモノとして、生きる希望として、心の支えとして、“感動”や“美”が存在し、それをこの現実世界に生み出す術のことを“芸術”と呼ぶのだと、私は定義しています。

希望が途絶えたとき、人は絶望し、死に至る。

 

オタクにとって“アニメ・漫画”は大切なモノだけれども、それを村上隆は戯画化した。

そりゃ怒るよね、と。アニメはオタクたちにとって生きる希望(それが無意識だとしても)なわけで、それを戯画化される(オタク側からすればバカにされる)んだから、もうめちゃくちゃ反発するはずなんだ、と。

これは極論だけど、この「村上隆の戯画化作品とオタクたち」という構造の行き着く先は、シャルリー・エブド襲撃事件なのだと思う。

弘法大師・空海や五百羅漢、アニメやその他の芸術作品のように、預言者ムハンマドもまた、イスラム教徒にとっては大切なモノ、生きる希望として機能している。(宗教ってそういうモンかと)それを戯画化した(見方を変えればバカにした)シャルリー・エブドは、その反発を受けた。つまり、テロ。

 

世界という舞台で奮闘している日本の現代アーティストであり、1990年代にオタクにとって大切な“アニメ・漫画”をモチーフにした作品を作り、日本人(のオタク層)を描き出した村上隆が、14年ぶりに国内個展を開催しそのモチーフとして五百羅漢を選んだことは、東日本大震災を経験した日本人にとってかなり重要な出来事だと思うし、村上隆本人がどこまで意図しているかわからないけれど、それは村上隆が築き上げた文脈上での彼にしかできない唯一無二の芸術作品であり、ヒーローの必殺技にも似た爽快感とカッコよさを感じる。

しかし、それは同時に、五百羅漢が信仰されていた時代と比べて医療やインフラがよりずっと発達している現代において、どこまで人々の希望に、すがりつきたいモノになれているのだろうかという疑問も浮かぶ。六本木ヒルズという大都会のど真ん中、高層ビルの53階で開催されているというのはもはや皮肉にすら感じる。もはや、村上隆はそれすらも批評として作品や展覧会に内包しているのではないかと邪推(期待)してしまうほどに。

 

②誰かを救うために、「人はどうして感動するのか?」を追求したい。

 

つまり、現代においては、フィクションでは人を救えない。

そう思うことがよくある。現代アートもアニメも小説も映画も、その他の人を感動させるフィクション(虚構)すべて。

だって、現実はあまりにも無慈悲で理不尽で残酷で身体的だ。どんなにフィクションに逃避をしようとも、それは結局フィクションであって、人間はどこかで現実と向き合わなければならない。

 

 

しかし、

それでも。

そうであっても。

愚痴愚痴とああだこうだと理論を積み重ねて、なんだかんだと主張しつつも、

やっぱり私は芸術作品が好きだし、自分にとって大切なモノ(すがりつきたいモノ・感動)を自覚し(あるいは真摯に向き合って模索し)、自分の感性や美学を守りながら、時にはそれを武器として闘い、時には自由気ままに、時には破滅的に、自分にとっての大切なモノが社会との接点を持ち得るよう努力する芸術家という存在はむちゃくちゃカッコいいし、ヒーローに対する憧れや希望にも似たようなこの感情こそがまさに僕にとってのすがりつきたいモノなんだと思っている。

 

アート・アニメ・漫画・小説・絵本・写真・映画・音楽・演劇・ダンス・詩・俳句・ファッション・陶芸・建築・デザイン・ゲーム・インターネットサービス・飛行機・ロボット・義足・哲学・庭園・お笑い・書道・盆栽・花・数学などなどなんだってそうだ(随時更新)。自分にとって大切なモノ・心地いいモノを追求する人たちはカッコいい。たとえそうすることで、社会とのズレが生じて、燃えさかる炎をバックに愉悦的に高笑いするジョーカーのようになってしまったとしても。

 

少なくとも、人生を肯定できない人間にとって、そういった芸術活動は社会を生きる上での武器になりえると思うし、

芸術は、医療や社会インフラ、人間関係によっては救われない人たち、そこから零れ落ちてしまった人たちを救うことができるのではないかと願っている。

 

ていうか、“願っている”だけじゃなくて、

そうやって誰かを救えるように、“芸術”というモノをもっともっと追求していきたい。

 

理論だけじゃなくて、フィクションとしてじゃなくて、まるでインフラのように、まるでインターネットサービスのように、誰もが等しく利用できるように“芸術”という方法を模索していきたい。

fMRIあたりを使って個人個人の脳の動き・反応を調べて、「あなたにとっての快感原則はコレ!」みたいに具体的な提案をするとか…?…正直、今のところは全然見当もつかないけど…(※いい案ないですか)。

 

できるできないじゃなく、利益になるならないじゃなく、そっちの方がカッコいいって思っちゃったんだから、じゃあどうすりゃいいのか?ってまずは考えること。

誰かにとって大切だと思うモノや美しいと感じるモノが、また別の誰かにとっても大切だったり美しかったりするという奇跡。

それでいて、誰かが救われたりするんだから、これってもうむちゃくちゃ素敵すぎるじゃないですか。

そういうことがもっと当たり前になるような世界になれ!って、そっちの方がカッコいいじゃないか!って思うわけです。

 

宗教なき日本において、

人々の生き方が多様化する現代において、

個人個人が自分にとって大切なモノ(すがりつきたいモノ・感動)を軸として生きることはとても重要にもなってくる(と最後に無理やり社会的意義も挙げておきます…)。

 

さて、そんなこんなで、いつもどおりに、偉大な芸術家を引っぱり出して自分語りをするというアレな記事でしたが、私にとってはまさにこの芸術論こそがすがりつきたいモノなので、今後も大真面目に、必死に、血反吐を吐こうとも(っていうぐらいの気持ちで)、どうにかして実現させたい。

とはいえ、「人間はどうして感動するのだろうか?」という疑問は「人間ってなんだろう?」ということでもありまして、そういう意味では、「感動=すがりつきたいモノとの出会い」という仮説だとまだまだ違和感というか、手落ち感というか、説明しきれないところもあるので、同時進行でまたうだうだと考えていこうとも思っています。

 

 

映画を作るとか、見るとかっていうのは、希望を表明する行為でさ。その時の自分は幸せじゃないかもしれないけど、人生は幸せかもしれないって大声で言っているようなものなんだよ。幸せじゃない人だからこそ、作ったり、言ったりする権利があるってことだよ。by映画監督・細田守

 

(マイケル・ジャクソンは)みんなから支持されてステージにドンって上がるだけでみんな失神するぐらいの人なのに
すごい寂しそうな感じがここの寂しさとリンクさせて強く惹かれたのは自分に寂しいとか切ない感情があって
そこの琴線と震えた共鳴した部分があったと思います。byミュージシャン・星野源

 

人間とコンピュータの決定的な違いはモチベーションやビジョンがそこにあるかどうかだと思います。ここでいうビジョンとは、個人的なフェティシズムに基づく批判的な視野のことで、個人的な経験や身体性に基づく視座のことです。難しそうな言葉を使っていますが、一言で言えば、人生経験を通じて僕たちに生まれるこだわりのことです。by落合陽一

 

自分は、そういうものに鈍感だったのかもしれません。 しかし、自分がこだわるところはそこではないと思いました。by山海嘉之

 

 

じゃあなんでこんなエントリ書くよ。なんで時々日記じゃないこと書くよ。何故か。おれはこの世が少しでもおれにとって楽しい(「正しい」じゃねーぞ)場所になってほしくて書いているのだ。何人かはもしかしたらいるかもしれない。「うん、そこらへん気をつけて書けばもうちょっと映画評面白くなるかな」って考える奴が。そういう奴の存在におれは賭けてるんっだつーの。「個人の自由だと思います」とか抜かしている間は何も変りゃしねえ。いい言葉だな「個人の自由」って。たいそうなこった。くたばれ。おれはおれにとって読み応えのある文章がすこしでも増えてほしくてこういうことをやってるんだ。おれのためだ。世界がおれにとってちょっとでも楽しい場所になりゃ万々歳だ。あのな、おれは世界を変える気で書いてるんだよ、大袈裟に言えば。いや大袈裟じゃないか、ホン トの話だからな。スルーされない何人かに届いて、その人間が面白い文章をはてなで書こうとしてくれりゃおれにとっては大勝利なんだ。おれは明日死ぬかも知れないし、そういう「個人の自由ですから」なんておためごかしに付き合っているほど暇じゃねーんだ。もっともっとおれにとって面白くて興味のある文章が読みたくてたまらないんだよ。by(誰も信じるな – 伊藤計劃:第弐位相

球体関節人形作家:ハンス・ベルメール

人形に恋をするという物語がある。

それは、怪しげで淫靡な香りがする、越えてはならない禁忌のようにも感じられ、その孤独なラブ・ストーリーに子どもの頃から興味があった。「どうして人は人形に恋をするのか?」という単純な疑問だ。漫画やアニメにそういった物語が登場するたびに、ボケーッと不思議に思っていた。

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『ただ唯一の魂として「Das Seele Ⅰ」』 球体関節人形、2004年制作、磁器、非売品

 

まあでも結局、「実は私…人形に恋をしてしまったんです…」という素敵な方と出会うこともなく、ましてや自分自身が人形に恋をしてしまうこともなくて、だんだんと興味もなくなってしまった「お人形さん」たち。

 

しかし。とある1冊の、たった1枚の挿絵を見て、その造形に心を奪われたことがあった。

むちゃくちゃかっこいいじゃん、なんじゃこりゃ」と、文字を追っていた視線が、ひとつの作品に釘付けになった。

それは、ハンス・ベルメールの球体関節人形。

独特なポージングと色彩と、人形がもつ不気味な質感と。

 

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怖いもの見たさのように、惹きつけられずにはいられない。

この気持ちは恋ではないけれど(たぶん)、心が大きく動かされた瞬間だった。

「で、この人形はなんなんだ?」という好奇心に連れ回されて、色々な書籍を巡って調べてみると、そこにひとりの作家の人生と恋の物語が見えてくる。その作家が、ハンス・ベルメールであり、厳しい時代を生きながらも「完璧じゃなくてもいいんだ、不完全でも美しいんだ」という力強い美学を実践し続けた芸術家でもある。

ハンス・ベルメールの物語と、少年漫画のヒーローの物語を重ね合わせて、「どうして不完全でも美しいのか?」「そもそもハンス・ベルメールって何者なのか?」「人はどうして人形に恋をするのか?」という疑問や、ハンス・ベルメールのカッコよさ、あるいは芸術のおもしろさとか、そういういろんなもんをぶち込んで、ひとつひとつ丁寧に紐解いて、再構築して、僕なりの物語を作りたい。

不気味な造形の球体関節人形が、「完璧じゃなくてもいいんだ、不完全でも美しいんだ」ということを実感させてくれる。

そういう物語です。

 

①漫画やアニメの「人形」と、それに恋をしたYahoo知恵袋の質問者

「人形」は、現実の世界で愛好されるだけでなく、フィクションの世界にもそのモチーフが登場します。

と、「おいおい、ハンス・ベルメールはどこいった(怒)」という声を無視して、ちょこっと脱線して、漫画やアニメにとっての「人形」について触れておきます。後々の物語が進行し、僕が伝えたいことが明るみになったとき、とても重要で、現実的な喩え話になりますので、どうかご辛抱ください。

さて、例えば、「人形遣い」や「傀儡子」と称されるキャラクターがいて、異能力バトル漫画であれば、たいてい敵キャラとして登場します。敵キャラな人形遣いたちは、人形を闘いの場に連れ出して、仕込み銃とか刃先に塗布された毒とかカラクリを存分に繰り出して応戦する。漫画やアニメのセオリーとして、人形たちは主人公によって撃破されるわけですが、そうすると、人形遣いは自分の大切な人形が壊されたことに怒り狂い、そして興奮するんです。それは人形を愛しているからこそ。狂気的だけど、甘美で心惹かれる人形遣いの性格(性質?)が、子ども心ながらに僕は好きでした。漫画やアニメは当然フィクションですが、現実世界に現れた人形遣いとして、ハンス・ベルメールからもその「美しさ」=(心惹かれる要素)を見出します。

 

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押井守監督『イノセンス』にはハンス・ベルメールの写真集『THE DOLL』が登場する。
そもそも、劇中の少女型の愛玩人造人形「ハダリ」はベルメールのドールが引用元!(画像は映画のワンシーン)

映画の制作にあたり、押井守監督は実際にハンス・ベルメールの作品を観に行ったのだとか。

イノセンス スタンダード版 [DVD]
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 (2004-09-15)
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漫画やアニメとしての人形を語る上で、どうしたって外せないのが漫画(およびアニメ)の『ローゼンメイデン』でしょう。

 

ローゼンという人が作った7人のアンティークドールが動き出し、「究極の少女であるアリスを目指す」ために闘います。
主人公は桜田ジュンという引き篭もり中学生で、ひょんな事から真紅というアンティークドールと出会い、ほかのドールとの闘いや交流を通じて人間的に成長していくという物語。

新ローゼンメイデンの水銀燈が可愛すぎる件 【画像】

新ローゼンの翠星石が可愛いすぎるよおおおおおおおおおおおん

※とりあえず、可愛すぎることが伝わってくるリンクです。

 

で、もうひとつリンクを貼りますが、こっちが大本命です。

本気で恋したキャラが二次元で、本気で悩んでます。 最初に恋したのは「NHKによう… – Yahoo!知恵袋

これは、これだけは、ぜひとも読んでほしい。

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。
自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。
あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。
特にあの学校のシーンは反則です。自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

 

この質問に対する回答がもう素敵すぎて泣けてくる。

勝手な解釈だけど、「こうあるのがいいよね」という理想像から外れてしまったマイノリティーの話だと感じた。

「こうあるのがいいよね」という雰囲気があって、「そうじゃないんだけど…」っていう人がいる。僕はマイノリティー…というか、“個性”というモノに興味があって。例えば、このYahoo知恵袋での質問であれば、コミュニケーションを上手く取ることが出来ず、ふつうの人間関係すら築けない性格(個性)の人がいたとして、コミュニケーションが前提である社会ではどうしたって生きにくい。でも、みんながみんな、「コミュニケーション最高!」ってなれるとはとうてい思えない。みんな違ってみんないいわけで。この質問主がそうである!とは断言しないけど、たとえコミュニケーションが下手くそでも、他の能力がむちゃくちゃすごいかもしれないし、そういうことがあったらカッコイイのにって思うわけです。

以上、ちょっとだけ不器用な、人形に恋をした青年の話でした。

 

②「ハンス・ベルメールのヴィラン(敵)は誰だ?」

ヒーローのセオリーとして、ヒーローには闘うべき相手、“ヴィラン(敵キャラ)”が存在する。バッドマンにはジョーカーがいるし、ドラゴンボールにはフリーザや魔人ブウなどの強敵が現れる。当然ながら、敵は強ければ強いほど、こっち(読者)のテンションは絶望の淵に立たされるわけである。

では、ハンス・ベルメールからヒーローの物語を見出すとき、そのヴィランとは誰で、なんだったのか。

親は厳格ながらも裕福な家庭に育ったベルメール。幼少の頃から美術に興味を持ち、24歳の頃にはデザイナーとして大手企業から仕事を貰えるほどに高い評価を得ていた。婚約者が病に倒れたりと、順風満帆とはいかないけれど、各国を転々としながらどうにか生活をしていた。しかし、そんなベルメールも、とあるヴィランの登場によって、闘いの場に駆り出されることになる。ヒントは、ハンス・ベルメールがデザイナーとして活躍していた時期が1930年代のドイツであること。

そう、それは世界史においてこれ以上ないほどの敵キャラ「キング・オブ・ヒール」のアドルフ・ヒトラーだ。

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アドルフ・ヒトラー Adolf,Hitler(1889~1945)

それは同時に、ヒトラー率いるナチスドイツのことであり、当時ヨーロッパをも席巻していた『優生学』のことでもある。

ここで『優生学』について論じ始めると泥沼にハマるしちょっとデリケートな問題なので、「ドイツ民族こそが優秀な民族であり、その純粋な血を守るために、劣った民族(ユダヤ人やロマ人)や同性愛者、遺伝病や精神病者などの劣等分子を排除すること」を正当化する学問が『ドイツ優生学』であるとして物語を進めます。

絶大な人気と支持率を誇ったダーウィンの「劣った生物は環境によって淘汰されるんだ!」という進化論を人間の社会にも応用しちゃって、発展させちゃった学問が『優生学』や『民族衛生学』なので、「劣った子どもたちが生まれてこないようにして、優秀な血筋の子どもが生まれてくるようにすることで国家や民族が健康的でより繁栄できるようにしましょう」なんてことは意外と(当時は)真面目に学問の領域として信じられていた。

「健康な金髪碧眼で白色人種のドイツ民族こそがいいよね」というひとつの空気感。「こうあるのがいいよね」と決めることで、ナチスドイツ政権下では、7万人の障害者や難病の患者が「生きるに値しない生命」として『安楽死計画』の犠牲となった。通称、『T4計画』とも呼ばれる。圧倒的な権力でもってドイツを牛耳るヒトラーと、悪の組織としてのナチスドイツ。

しかし、ヒーローは絶望的なほどの権力差・力量差があっても決して諦めず立ち向かっていく。どうしようもない現実や時代と対峙して、たとえ血反吐にまみれながらだとしても、自分にとっての「正義」を必死になって貫き通す。それが、それこそがヒーローであり、ヒーローのカッコよさでもある。そのヒーローの物語を、僕はハンス・ベルメールの芸術活動と重ね合わせる。

1933年、ナチスドイツが政権の座に着くと同時に、ベルメールは一切の有益な社会活動を停止することを決意する。そして、当時のドイツでは「ナチスドイツにとって役に立つ(=有用性がある)かどうか」が重要視され、役に立たないヒトやモノ(=無用性)は淘汰され始めた。その時代の流れに拮抗するかのように、ベルメールは社会にとって役に立たない「人形」の制作を開始した。

人形遣い:ハンス・ベルメール vs ナチスドイツの総統:アドルフ・ヒトラー

(いまさらですけど、↓ハンス・ベルメール。)

ハンス・ベルメール

ハンス・ベルメール -castellidoll-

 

③ポンコツヒーロー見参!ハンス・ベルメール!

芸術のおもしろさは、自分にとっての興味関心、好き嫌い、問題意識といった「心を掴んで離さないモノ」をどうやって社会に対してぶつけて共有するのか?という試行錯誤にあると思うんだけど、(自分の心を掴んで離さないモノ=個性であって、みんな違ってみんないいのにそれが同じわけないじゃん!)ベルメールの場合も、ヒトラーへの攻撃手段として、自分にとっての「心を掴んで離さないモノ=快感原則=美しさ」を主軸にしている。だから、まずは彼の心を掴んで離さないモノ=彼が「美しい」と感じるモノを理解しないといけない。

では、それは何か?

ベルメールにとっての「美しい」モノは、子どもの頃の記憶に立ち戻る。(そして、それはもしかしたら、誰でもそうなのかもしれない)それは、人形遊びであり、幼少時代に一緒に遊んでいた従妹のウルスラに対する恋でもあった。少女の球体関節人形を制作するベルメールの快感原則は、幼い頃の恋心とその記憶だった。

同時に「愛とは、あらゆる遊戯の中で、どんな状況下においても断念することが最も困難な遊戯ではあるまいか」とベルメールは語る。だから、人形制作(人形遊び)だったのかもしれない。つまり、子どもの遊びベルメールのウルスラへの愛が社会にとってはまったく役に立たないのであって、個人的なフェチズムによって制作される人形が「役立たず」✕「役立たず」で、もうどうしようもない「ポンコツ」であることは当然の結果だ。

しかし、ベルメールにとっては、個人的な性的嗜好としての少女人形であり、遊戯としての少女人形であり、武器としての少女人形だった。少女への個人的な恋心も人形制作という遊戯も、ベルメールにとって「美しい」モノでありながらも、 社会にとっては役に立たないポンコツな行為であり、つまり「社会にとって役立つモノを!」という価値観に対するひとつの“攻撃”だったわけだ。

「美しい」モノと向き合うことで辿り着いた少女に対する性的衝動と、

社会的に役に立たない遊戯(人形遊び)によって、ベルメールの『第1ドール』は完成する。

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(ベルメール自費出版物『La Poupee(人形)』に掲載された『第1ドール』の写真)

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Hans Bellmer: Octopus Time

 

そして、 『第1ドール』の制作から1,2年後、ベルメールの攻撃はさらなる進化を遂げる。

ベルメールは、ベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館にて16世紀に制作された球体関節人形と、当時美術界でブームを巻き起こしていたシュルレアリスムという美術運動と出会った。「球体関節人形」と「シュルレアリスム」という、この2つと出会うことによって、彼の能力は『第2ドール』へと覚醒した。

球体関節人形の特徴は、文字通りですが、人形の関節部分を球体化できるということ。思いのままに自由なポージングができるようになったり、あるいはカラダのパーツを自由に入れ替えて繋げることができるようになった。

そこでも、ハンス・ベルメールは止まらない。シュルレアリスムが開発した「アナグラム」というシステムを採用し、球体関節人形の自由度の高さを利用して、「上下とも少女の下半身」といった数々の衝撃的な光景を生み出した。(中々にショッキングな作品なので、興味ある方は自分で調べてね)「球体関節」と「アナグラム」を取り入れることで、ベルメールの能力『第1ドール』は、「役に立たない存在」としての意味合いを強め、より猟奇的になった見た目は圧倒的な破壊力を誇った。『第2ドール』の誕生だ。

事件性をおびたフィクション(映画や小説などなど)に僕らの心が奪われるのを見るにつけ、「美しさ」は時に残酷なのかもしれない。

Hans Bellmer: Octopus Time
(いくつか作品画像が見られます)

ベルメールは「少女を自分の意のままに操りたい!だから、人形をつくってやりたい放題!ドゥフフフ」というド変態な趣味嗜好を持っていた、と考えることもできるんだけど(そして、ただの萌え豚ロリコン野郎が世界を救うヒーローになるという設定は最高にかっこいいなと思うわけですが)、ただの「少女たん(*´Д`)ハァハァ」な大きいお友達が、少女人形のカラダをバラバラにして遊ぶなんてことにもちゃんとした(?)理由があったりします。それが、シュルレアリスムの「アナグラム」という言語システムです(「アートは難しい・わけわからん」と言われる原因はこのあたりの独特な美術史にあると思っている)

「そもそもシュルレアリスムってなに?」ってところだと思うんだけど…簡潔にパパっと説明できるほど詳しくないのでてきとーに紹介すると、フロイトが「夢だ!無意識だ!精神分析だ!」とか言うのに影響をうけて、「じゃあ、その無意識ってやつをどうやってカタチにすりゃいいんだ?」とああでもないこうでもないと様々な方法を考えて、試して、実際に制作していた人たちによる芸術ブーム(1920年代)を「シュルレアリスム」と言います。有名ドコロの作家さんだと、サルバドール・ダリやマックス・エルンストなどなど。で、その無意識を表現しよう!とする手法のひとつとして、「アナグラム」があります。

具体的には…。

Salvador Dali(サルバドール・ダリ=シュールレアリスム画家)

↓ 解体

a a a d d i l l o r s v

↓ 変換

Ladai Dorvals (無意味)

↓ 変換

Avida dollars(ドル亡者)

 

意味のある言葉を一度解体して、文字を入れ替えることで、意味不明な言葉を作り出して遊ぶことを「アナグラム」と言う。例えば、Salvador Daliという人名(意味のある言葉)を入れ替えてLadai Dorvalsという意味不明な言葉を作る。パターンはいくつもあると思うが、「アナグラム」の醍醐味は、そのたくさんある意味不明な言葉の中から、意味深い言葉(意味ありそうな詩的な言葉)を発見することである。Ladai Dorvals(意味不明)→Avida dollars(ドル亡者)へ。意味のある言葉(有用性のある言葉)を、意味不明な言葉(社会的に無用な言葉)に変換して、その中から「意味」を見出す。

ということを「少女人形のカラダのパーツでやっちゃった」のがハンス・ベルメール、その人である。

この「アナグラム」の採用こそが、『第2ドール』の真髄だ。無用の象徴でもあった少女人形を、さらにバラバラに解体して、より無意味な存在になるようパーツを入れ替えて徹底的に変換させる。社会的には意味のないモノでありながらも、そこに「意味」を見出したベルメールの美学。「使えるモノを!」と声高に叫ばれる時代において、それに真っ向から対立するかのように、徹底的なまでの「ポンコツ」化。それが、ハンス・ベルメールの球体関節人形である。

 

④Yahoo知恵袋の青年が秘めてる(かもしれない)カッコよさ

いくつにも重ねられた「役立たず」という烙印は、グロテスクな外見となって少女人形に刻印されていた。上半身を下半身に入れ替えたり、腕や足が欠損していたりと、「こうあるべき」というひとつの肉体像からは程遠い。「上も下も下半身だけ少女人形」など、僕にとって「美しい」作品ばかりではないけど、それでも、『第2ドール』を撮影した作品のうちの1枚に僕の心が掴まれたことは間違いない。その瞬間、 「不完全でも美しいモノがある」と、実感をともなって確信しました。

半世紀以上前に「こうあるのがいいよね」という基準に満たない人々が虐殺されていてそれがその時代の「正義」だった。

しかし、ひとりの芸術家が「そうじゃねえだろ!」と、不完全な人たちの美しさを証明してみせた。

ナチスドイツが奨励する芸術以外は「退廃芸術」として弾圧されていた時代において、「不完全なモノの美しさ」を黙々と人形に込め続けた。「ナチスドイツの考え方は正しくて、有用性を持たない人間は淘汰されるべきだ」という『ドイツ優生学』を認めるわけにはいかなかった。

ハンス・ベルメールの場合は「こうあるのがいいよね」という主観的基準における肉体的な差異ではあるし、想像もつかないような残酷な時代背景で生まれた「正義」でもあるけれど、21世紀に生きる僕たちにも通じるモノがあると感じています。

「完璧じゃなくていいんだ、不完全でも美しい」というひとつのメッセージは、「こうあるのがいいよね」という基準(=完璧)から出ちゃってもいいんだ!そんなん気にすんな!と、自分なりの「こうあるのがいい」を大切にする人たち(大切にせざるを得ない人たち)を救うことになるのではないか。例えば、コミュニケーション不全で他人から見放され見下され、アニメのキャラクターに救いを求めたひとりの青年とか。「こうあるのがいいよね」という雰囲気に翻弄されると、その行き着く先はアウシュヴィッツだ!というのはさすがに言い過ぎだろ…と思うけども、それでも、自分なりの「こうあるのがいい」を貫くような、まるでヒーローのような人が増えたらいいなあ、とはわりと本気で信じています。

自分なりの「こうあるのがいい」を大切にする人たち、つまり「芸術家」がもっともっとカッコイイとされる世界になればいいのに、と。

とあるテレビ番組で、写真家・蜷川実花さんの事務所の内装が紹介され、それを観た友人が「悪趣味だなあ」と呟いた。蜷川実花さんは「心地よい密度」「超落ち着く」と嬉しそうに語っていた。そういうことじゃん。蜷川実花さんは自分の快感原則に正直であり、だからこそ、彼女が写真を撮るとき上っ面だけの美しさではなく、もっともっと深くまで達して多くの人を魅了できるのではないか、と思うのです。自分にとっての「こうあるのがいい」という「美しさ」を大切にしているだけで、それだけのことで、世界がもっともっとカッコよくなるに違いない。

社会にとって役に立たないかもしれないけど、自分にとって美しい「少女」や「遊戯」、「無用性」を追求し続けて、『第2ドール』としてカタチにしたハンス・ベルメール。僕なんかはもうその「カッコよさ」に心惹かれちゃって、だからこそ、ベルメールは僕にとってむちゃくちゃカッコいいヒーローなんだ。そして、その『第2ドール』に込められた美しさは、完璧じゃなくてもいいんだ、不完全でも美しいんだということ。美しさは、宗教だから、彼の作品に惹かれる理由もなんとなくわかる。

 

人形愛とはそもそも、
心の底に潜んでいる自己愛を人間の形をした対象の上に投影する可能性のことではなかったか。
by夜想 特集『ハンス・ベルメール』

 

夜想 特集『ハンス・ベルメール』
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装幀家:水戸部功

【深は新なり】
何か新しい事をしようとしてむやみに足を埒外に踏み出すのは危険なことである。それよりも自分の携わっておる事、研究しておる事に専心して、深く深くと掘り下げて行くことによって、其処に新しい水脈が発見されて来る、その事が尊いのである。

 

 「深は新なり」とは、俳人・高浜虚子の言葉です。

 僕はこの言葉がとても好きだ。すべての新しいモノがそうであってほしいと願う。

 「新しいモノは何か?」という疑問から始めるのではなく、自分にとっての興味関心・好き嫌いや問題意識なんかを、ただただひたすら、ただただ静かに、深く深く追求し続けるだけで、知らず知らずのうちに「おいおい、なんだそりゃ」と世界が度肝を抜くようなモノが生まれていた、そんな物語の方が絶対にかっこいい。

 今回は、ブックデザイナー・水戸部功。

 俳人・高浜虚子の「深は新なり」と「客観写生」という2つの言葉を元にして、ブックデザイナー・水戸部功の仕事と、その美学についての物語を作りたい。

 「デザイナー」という言葉を使った方が一般受けしやすいかなと思って「ブックデザイナー」という表記にしましたが、個人的には「装幀家」の方がかっこいいので、ここからは装幀家・水戸部功として話を進めます。

 

 まず、水戸部功って誰?ってことで、その仕事を並べてみる。

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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BIRD GRAPHICS BOOK STORE 水戸部功
↑上記サイトは、装幀についてググってるときに偶然見つけたサイト。
素敵な装幀の本が、装幀家のクレジットと共に紹介されている。マニアック路線。気になる装幀家の名前で検索すれば一覧で表示されます。
あと、『NAVERまとめ』でもまとめがあったので、載せておきます。
【本】なんかシンプルだけど目にとまる水戸部功の装丁

 

 本の装幀とは、表紙にイラストや写真を使うことで人々の興味をかき立てるモノだ。しかし、水戸部功は文字だけのシンプルな装幀を手がけている。『これからの正義の話をしよう』などを皮切りに、近年「文字だけ」装幀で書店が賑わっているが、水戸部功はその火付け役とでも言える。新しいスタイルを生み出した水戸部功の発想は、どこから来るのだろうか。

 大学時代はメディアアートを専攻していたと言う。
しかし、「本は最も本質的なメディアアートになり得る」として、装幀の世界へと進んでいった。

建築からグラフィックまでジャンルの境界をなくすバウハウスの理念に共感を覚えました。
本はそのちょうどいいバランスがとれるとも感じました。by水戸部功(Pen 2014年6/15号[美しいブック・デザイン])

 

Pen (ペン) 2014年 6/15号 [美しいブック・デザイン]
阪急コミュニケーションズ (2014-06-02)


雑誌『Pen』2014年[美しいブックデザイン特集]にて、「本作りは建築っぽい」みたいなコメントがあって「へー、おもろいなー」と思ったことがあるのだけど、それをふまえてもっと具体的に言うと、本は「劇場」なんだと思う。
つまり、装幀とは劇場をデザインすることに近い。ペラペラとした紙の束があれだけ「ビシッ!」としているのは装幀のおかげ。建築家が安全性や快適性を追求し、人々の生活をより快適なものにするのに対して、装幀家は紙に書かれた文章を保護すること(安全性)をひとつの目的としている。
さらに「この本、おもしろそうだな」と興味を持ってもらえるように外見をデザインすることも大切だ。本は商業的であり、個人宅の建築設計というよりは、商業施設の建築設計のようだ。その上で、本を開き文字を追うことで読者それぞれの物語が始まるのでなんかそれって劇場っぽいな、と思った。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』がふと頭をよぎる。

64ce62940f3eec6697c1eb4c52f63944http://blog.goo.ne.jp/ichi-ka110_119goo02tb/e/54e93f3529c0389c2af12eb79327d4bf
映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のワンシーン。これは映画館だけど。

 

 装幀とは、「建築」と「グラフィック」だ。そして、言わずもがな本は何百年という歴史を誇るメディア媒体だ。

 こうして、水戸部功は「メディアアート」というエリアから「装幀」というエリアへと至った。装幀編スタートである。

 しかし、何かを追い求めて前進するヒーローの行く手には、それを遮る困難が待ち受けているものだ。行く手を阻む険しい道かもしれないし、凶悪がゆえに敗戦を強いる悪役かもしれない。それはロールプレイングゲームの鉄則だ。だからこそ、装幀ワールドを突き進むと、どうしても避けては通れない強敵が現れる。それは、水戸部功の師匠でもあり、装幀の歴史でもある装幀家・菊地信義の存在だ。

文芸書の装丁でイラストレーションが基準になっていたというのは、要するに鈴木成一さんが基準になっていたということで、その鈴木さんをどう乗り越えるのかは、ずっとテーマにしていることです。(中略)いま鈴木成一さんのお名前を出しましたが、もっというと、その先にいる菊地信義さんを見ているんです。菊地さんが80年代から90年代にかけて生み出した、タイポグラフィや装画とのコラボレーションによる装丁の潮流、それが2000年代に入り、エンタテインメント性の高い作品が主流になるのと同時に鈴木さんがイラストレーションを用いて菊地さんの方法論を現代的に落とし込んだと思っています。by水戸部功(IDEA No.358)

 

idea (アイデア) 2013年 05月号 [雑誌]
誠文堂新光社 (2013-04-10)

 

 水戸部功と菊地信義は、実際の師弟関係にある。己の師を乗り越えんがために、努力を積み重ねる弟子という構図。「どこのバトル漫画だよ」とツッコミたくなるほどの激アツ展開じゃないですか。水戸部功は、デザインのスタイルだけでなく、その精神性や芸術性までも盗むべく弟子入りを果たした。菊地信義という精神を追求することは、装幀を学ぶということであり、装幀に興味をもった自分自身と向き合うことでもある。

デザインを学ぶというよりは、デザインに惹かれる自分を見つめ、自分のデザインをつくり出していくしかない。by菊地信義(新・装幀談義)

 

新・装幀談義

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菊地 信義
白水社
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 菊地信義にとって装幀とは何か。菊地信義はここで「囲い込み」と「解き放つ」を挙げ、「視覚的な要素で人の目を囲い込み、触覚的な要素で人の心を解き放つ」と語る。例えば、広告ポスターのようなグラフィックの場合、「かわいい」という印象を与えたいとき、「これかわいい!」と誰もが感じる記号(ハートマークやピンク色など)を使う。「ハートマークはかわいい」というような共通認識があるからこそ、デザイナーは「かわいい広告」や「かっこいい広告」が作れるわけである。本の内容が「かわいい」のであれば、表紙にかわいい記号を散りばめることで、書店にて「かわいい」本を求める読者の視線を捕まえることができる。(=囲い込み)
しかし、菊地信義は「囲い込み」のあと、例えば「かわいい」という印象をリセット(=解き放つ)したいと思うようになった。なぜなら、「これはかわいい本だ」と表紙デザインによって本の印象を提示してしまうと、読了後に「なんだ、期待したようなかわいい内容の本じゃなかった」という感想を持ってしまうことがあるからだ。

広告や書評、人のすすめなど、先行する情報が、書店での本との出会いを色づけています。(中略)読んだ人の「感想」にうながされ、読んでみることは悪いことではないのですが、人の「感想」を追体験するだけでは、読んだことになりません。「私」が作品から読み取る、あるいは作品によって「私」から読み出された意味や印象が大切なのです。(中略)しかし、装幀者のイメージだけで装幀された本は、私的な「感想」といってもいい。著名なアーティストの装幀は、それ自体が記号として使われているだけで、書評や広告での出会いとなんら変わりがありません。by菊地信義(新・装幀談義)

 

また、SF作家で映画ファンの伊藤計劃はこう言います。

宣伝文句で言われていることは、大体の場合映画の作り手の意思とは何の関係もありません。「ミュンヘン」を観て「テーマがよくわからなかった」などという人は、映画を観に映画館に行っているわけではないのです。代理店のコピーライターが考えた数行のキャッチコピーを、わざわざ1800円払って映画館に確認しにいっているだけなのです。by伊藤計劃(http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20060211)

 

 映画「ミュンヘン」におけるキャッチコピーにしても、「かわいい」印象を持った装幀の本にしても、あくまでもそれはコピーライターや装幀家の感想でしかない。「あの人はこう思ったみたいだけど、私はこう思った」なんていう感想の食い違いは当然あり得る。菊地信義は「読書とは、詩や小説の言葉から『自分を読む』ことです」と語っているけど、映画でも小説でも絵画でも「自分はどう感じたのか?」ということこそがおもしろい。だから、「かわいい」表紙デザインによって「これはかわいい本だ」と印象付けされた人々を、もういちどフラットな状態に戻す必要があった。そこで「解き放つ」ことが重要になってくるし、菊地信義はなるべく“私性”を排除しようとした。

 では、「解き放つ」とは何か。本は「建築」と「グラフィック」なので、立体物であり平面でもある。それぞれ触覚と視覚が重視されている。つまり、目で表紙を見て、手に取って本の質感を感じる。それは表面の手触りや重さ、本の大きさなどであり、人それぞれで体型も身長も筋力も違うからこそ、記号のような“同じ感覚”がない。身体は共通化できない。ある人にとって軽い本は、ある人にとっては重たいし、ある人にとって手に馴染む大きさの本が、ある人にとっては大きくて持ちづらい。本は手に取ることで個人的なモノになる。あるいは、個人的なモノになるようにデザインすることが、装幀家・菊地信義の仕事でもあった。

 

私は、(中略)文字は装幀を構築する一要素として、まずその意味を主にすえ、書体の印象はほかの要素、図像や色といったものとの関係で考えてきました。しかし仕事をしていくなかで、書体からイメージを消すことができないだろうかという思いが強くなりました。by菊地信義(新・装幀談義)

 

 印象(イメージ)からの解き放ち。それと同時に、菊地信義は装幀家の感想とでも言える“私性”の排除を試みる。文字の意味だけに重点を置いて、余計な印象を与えないようにすること、つまり、タイポグラフィが重要視されることになる。そして、装幀家・水戸部功の美学(興味関心や好き嫌い、問題意識など)も、タイポグラフィに辿り着いた。

 

一連の文字によるデザインというのは、あらゆる武装を排除したいという意志表明なんです。書体の選定による武装、イラストレーションという武装、ほかにも紙・素材による武装、箔押しなどの加工による武装と、装丁における表現方法として皆さんそれを駆使してデザインされている。(中略)何も身に纏っていない裸の状態で言葉を、つまり書名や著者名、帯文などをそのままぶつけたい。そのことによって、より刺激的にコンセプトが浮かび上がってくる、そういう見え方にしたい。完全なるミニマリズム。by水戸部功(IDEA No.358)

 

 「ミニマリズム」と聞くと、どうしても思い浮かぶのが、バウハウスのデザインだ。前時代(19世紀末)の装飾豊かなアール・ヌーヴォーから装飾性をだんだんとなくしていったアール・デコとバウハウス。

・画像で見る アール・ヌーヴォー様式の作品(建築、絵画、工芸品)

アール・ヌーヴォーの代表作家・ミュシャ

297852_236758643046218_399987284_nhttp://www.salvastyle.com/menu_symbolism/mucha.html

装飾された文字が作品全体の雰囲気をも華やかにしている。

・【東京近郊】一度はちゃんと見ておいたほうがいいアール・デコ建築まとめ

・バウハウス(Bauhaus)のデザインいろいろ

 建築や工業製品にその影響が大きく見られるなかで、タイポグラフィもその例外ではありませんでした。例えば、バウハウス時代の流れをくむ代表的タイポグラフィである『Futura』は、その無駄のなさに美しさを感じます。

futurahttp://banban-font.com/2011/02/look_famous_fonts_1/

・Futuraがかわいすぎる。

タイポグラフィの歴史を紹介している動画。参考までに。

・タイポグラフィの歴史を5分で説明するよ(コマ撮り動画&全訳)

 アール・ヌーヴォーのような動的なタイポグラフィに対するバウハウスのような静的なタイポグラフィの関係性。この関係性を、僕は菊地信義の装幀と水戸部功の装幀に見出します。

 水戸部功が装幀を手がけた書籍『これからの正義の話をしよう』が大ヒットを記録し、文字だけのシンプルな表紙デザインというひとつのムーブメントが生まれた。書店をフラフラと歩いていると、ほかの装幀家たちもイラストレーションをなくした文字だけの表紙デザインを取り入れているのがわかる。それは広告的イラストと文字(タイトルや著者名)という従来の装幀を刷新するような新しいデザインだ。「その新しいスタイルを提案したのが水戸部功である…!スゴイ!」………と言われがちですが、その仕事はすでに菊地信義が行なっていた。

 

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などなど。これらは菊地信義による装幀。この他にも文字だけの装幀はたくさんある。
(ちなみに『考える皮膚』は、水戸部功が影響をうけた装幀だとか)

では、水戸部功の装幀とは何か。

 それはタイポグラフィへのこだわりであり、『ゴシック体』の採用である。つまり、文字が持っている「印象」を排除することである。僕個人の感覚としては(そして、僕以外のひともそうだと思うけど)菊地信義が採用した文字、つまり『明朝体』からは、他者を断罪するような力強さを感じる。一方で、水戸部功が採用した文字、『ゴシック体』からは、文字がただそこにあるだけで何かの印象を受けることがない。菊地信義のような動的な装幀デザインに対する水戸部功のような静的な装幀デザインの関係性。かつてのバウハウスが提案し、インターナショナルスタイルとして世界中を席巻したムーブメントが想像される。

 装幀界の巨匠・菊地信義は背丈ほどもある大剣を持った鋼鎧の重騎士。長年の経験によって積み重なり、攻防知略戦に富んだ技術と直感は、オールラウンダーながらも、一撃一撃に重さを持った破壊力が込められ、なにものにも臆さない鉄壁となる。一方で、水戸部功は一本槍を片手に振り回し、颯爽と敵陣を走り回るランサーのようだ。美学ともいえる大槍は、たったひとつの戦闘具でありながら、装幀という戦場において一点突破を成し遂げた。

 この大槍こそが、水戸部功にとっての「私」なのだと思う。

 デザイナーは、クライアントの要望に応えるのが仕事であり、作家性などいらないと言われる。水戸部功自身も「装丁は、個人の趣味や嗜好に依存せず、時代の文化に寄り添い、マーケットのことや編集のこと、さらに作家や版元の歴史はもちろん、自分が装丁する本の著者をどう育てていくかというところまで考える」と語る。
実際、ゴシック体の文字だけによる装幀デザインは、インターネット世代との相性がいいとか、不況の影響で出来ればコストを抑えたいという出版業界のお財布事情とも相性がいいとか、外的要因も大きい。それでも、著者や編集者、版元、マーケットを丁寧に読み取って、装幀という方法でカタチにしていると、その作家性が浮かび上がってくる。

 

そのため私は、「私」を引いて「他」を生きようと心がけてきました。なぜなら「他」を考えるのも、作品からイメージを読み取るのも、まぎれもない「私」でしかないからです。by菊地信義(新・装幀談義)

 

 それはまるで俳人・高浜虚子の「客観写生」のようだ。

俳句はどこまでも客観写生の技倆を磨く必要がある。その客観写生ということに努めて居ると、その客観写生を透して主観が浸透して出て来る。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって客観写生の技倆が進むにつれて主観が頭を擡げて来る。by高浜虚子(俳句への道)

 

 客観写生とは、花や鳥などの自然の風景を客観的に写し取る(読む)こと。その訓練を丁寧に積み重ねることで、やがて主観、つまり作家性、「個性」が浮かび上がってくる。著者や版元、マーケットにとっていいデザインとは何か?と考えて、それを選択をするのは、まぎれもなく「私」である。その選択の軸がブレないデザイナーの仕事には、意図せずとも主観(私or美学)が頭を擡げて来るのではないか。

 「バウハウス」と「菊地信義」という水戸部功にとっての美学。自分にとっての興味関心を追求することで辿り着いた極地、新しいデザイン、新しいムーブメント。「深は新なり」なんだと僕は思うし、僕は願う。
本を読むとは、自分との対話であって、そのために装幀は他者の印象を排除すべきだと菊地信義は考えた。大量消費大量生産の時代の流れにそったシンプルだけど美しいという合理主義・機能主義を追求すべきだとバウハウスは考えた。「すべての造形的作業の最終目標は建築である」としたバウハウスの理念ともあいまって、建築的な「装幀」という場所に至り、菊地信義の美学を吸収して、書籍『これからの正義の話をしよう』の装幀を生み出したのだという「ひとつの物語」を僕は考える。

デザインを学ぶというよりは、デザインに惹かれる自分を見つめ、自分のデザインをつくり出していくしかない。by菊地信義(新・装幀談義)


自分が何に惹かれ、何に心を掴まれているのか。デザインという仕事に限らず、「自分」という個性を深く深く追求することで、見えてくるモノ。それが美学であると思うし、美学をカタチにして、社会との接点を持ちえるようにするのが「芸術」的行為。デザインとアートは別物であると言われがちだけど、根っこのところは変わらないし、それは生き方でもビジネスでもなんでもきっと同じなんじゃないか。

 例えば、装幀について色々と調べているときに偶然見つけたこのサイトの熱量がヤバイ。
この装丁がすごい!~漫画装丁大賞~2013
 これはホントスゴイ。ランキング300まであって、ひとつひとつの漫画の装幀に対してコメント付き。毎年やってる。こういう「他人には理解されがたいけど、でも好きだから仕方ない」みたいな状態は、ものすごく健全だし、かっこいいわけです。もっともっとそういうのが増えればいいのにって強く願う。

バカ侍:沖本碧邦

沖本碧邦について。

まず、「自分に挑戦したい」みたいなところがあって。
「こういうバカをしてみたいな」という“壁”があって、でも「ちょっと怖いな」と思いながらも、その“壁”を「パーーーンッ!!!」と乗り越える。「パーーーンッ!!!」っていくとき、やっぱり快感がありますよ。

 

 豪快なジェスチャーで、“壁”を壊すときの快感を語ってくれたのは沖本碧邦さん。通称、バカ侍。バカ動画を作ってyoutubeにアップしながらも、イベントでMCやネタをやったりと、お笑い芸人としての活動もしている。そのバカ侍の名に恥じぬ破天荒っぷりは、土下座で画鋲ヘッドバッドをして流血沙汰になり、便器にお味噌汁とかして飲んで、高尾山を匍匐前進で登り切るなど数々の偉業(奇業?)を残してきた。そのアウトローな過激さは、時に理解を得られない。しかし、それが彼にとっての“笑い”であり、彼の個性だ。

 一方で、クスっと笑えるようなシュールなギャグも意外と多かったり、「絵」や「書道」も表現のひとつとして行なっていたりと、多才な一面もかいま見える。彼の「ポップでシュールでグロテスクな絵」には混沌とした世界が力強く広がっていて、書道作品からは絵に負けず劣らずの熱量と流れるような動きが伝わってくる。彼の魅力のひとつは、大胆さの中にも感じられる繊細さだ。

 ある飲み会の場で偶然出会い、僕が(一方的に)惚れ込んで、後日インタビューをさせてもらった。以下は、そのときに根掘り葉掘りと質問をした会話の一部始終である。彼の個性に触れる一助になればと思っています。

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片山(以下、K):この前の飲み会でもそういう話があったけど、注目されるのが好き?ツッコミを受けるのが好き?

沖本(以下、O):あ、好きです。快感です。

K:自分にとって「このバカをやったらおもしろいだろうなー」っていうイメージがあって、それに対する周囲からのリアクションがあるから嬉しい?無人島でもバカをやる?

O:あー、それはどうなんですかね。リアクションもひとつの“壁”なんですよ。

K:リアクションも“壁”というと?

O:まず、「自分に挑戦したい」みたいなところがあって。「こういうバカをしてみたいなー」という“壁”があって、「でも、ちょっと怖いな」と思いながらも、その“壁”を「パーーーンッ!!!」と乗り越える。「パーーーンッ!!!」っていくとき、やっぱり快感がありますよ。でも、周りのリアクションも想像し過ぎると“壁”になるというか、他人のリアクションが「ちょっと怖いな」って思う自分もいるんですけど、「その“壁”も乗り越えてぇぞ」って。

K:じゃあ、「これ絶対おもしろいバカだわ」って自分で思えて、そこで周囲のリアクションという“壁”も壊せたら最高?

O:そうそう。でも、“壁”を壊そうとするときに「ちょ、やっぱり怖い!」ってなっちゃうときもある。「怖い」っていう感情でもあり、興奮するような感情でもあり、緊張感でもあり、それが“壁”みたいなもので。

K:「これはバカだな」っていう基準は自分の中であるの?

O:ありますね。ふと思いつく感じの。過去にバカだと言われたモノを見て、「ああ、こういうもんなんだなあ」と。youtubeとかにおバカな映像があるじゃないですか。フラッシュモブとか『ジャッカス』とか。『ジャッカス』はアメリカのおバカ番組なんですけど。そういうのに憧れたりはする。
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きれいにまとまっているので、映画『ジャッカス』シリーズの予告を。

 今まで『ジャッカス』という番組を知らなかったので、インタビュー後に調べてみたのだけど、その映像を見て「ああ、そういうことか」とすごく納得感があった。碧邦さんが目指している「理想のバカ」がめちゃくちゃ伝わってくる。こういう笑いが好きなんだなって。

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K:書道はいつ頃からやっているの?

O:小学校1年生から大学2年生ぐらいまでだから14年ほど。唯一続けましたね。ほんまに嫌だったことありますよ。「なんかもう行きたくない」って、駄々こねたこともありました。でも、それを乗り越えて、中学2年生ぐらいのとき「あ、おもろい」って思い始めた。それまでは全然おもしろくなかったです。でも途中で、習字をやらないと「気持ち悪い」ってなってきちゃって。

K:理想としている字のイメージがあるんだよね?

O:理想の字は、すっきりするやつです。歯磨きで言うと、「磨き残しがない」みたいな。習字をやっているといつも「ここまで磨いてるのになんかちょっと磨き足りない」みたいな気持ち悪さがあるんです。

K:理想の字というのは、書道として「これがいい!」というルールがあるの?それとも自分にとっての理想の字があるの?

O:書道に関しては「これがいい!」というルールはないと思いますね。俺がやっていたのは習字で、臨書っていうのがあるんですよ。他人の書いた字をなるべく忠実に書くっていう作業で、それをずっとやっていた。手本の人の感情や癖があるんで、「どこまでその人の気持ちになれるか?」ということ。

K:習字は、まず見本があって、それに「どれだけ近づけられるか?」という技術を磨く職人みたいなモノ?

O:そうそう。「自由に書きますよ!」っていう書道は、やっぱり自分を出し切った方が嬉しい。俺はずっと習字をやってきたんで、その経験の中で共通している理想の字は絶対あると思います。そこに俺をプラスで乗せるんですけど、その乗せ方がずれてると「気持ち悪い!」ってなります。自分のオリジナルを盛り込み過ぎても字がめちゃくちゃになるじゃないですか。それもそれで気持ち悪い。崩し過ぎず、でも自分を出すことができたら、「書けたな」という嬉しさが大きい。

 

『碧邦さんの書道作品』

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 ひとつ想像をさせていただくと、子どもの頃からずっと続けてきた「習字」が、碧邦さんの快感原則を形作ったのではないかと思う。ふと思い浮かんだイメージを、達成できないときの「気持ち悪さ」。そして、ふと思い浮かぶイメージにはきっと見本がある。このあとのインタビューにも出てくる「絵」と「笑い」にも共通して、「磨き残しの気持ち悪さ」という“感覚”が潜んでいる。
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K:絵を描き始めたのはいつから?

O:小学生のときはポケモンの模写をやってましたけど、中学生のときから好きな(オリジナルの)絵を描き始めました。初めて絵を描いたとき、それを(友達に)見せたら「気持ち悪い!」って言われたのが、ちょっと…快感でした(笑)エログロな絵をめっちゃ書きますね。

K:絵を描くときは「これを描こう!」っていう全体のイメージがあるの?それとも、とりあえず描き始める?

O:まず、なんか描きます。とりあえず、なんか描いて、とりあえずまたなんか描くんです。書道と一緒で、それも気持ち悪さとの闘いというか、違和感との闘いというか。絵によって違うんですけど、なんか闘ってますね。最初に「バッ!」って出てきたイメージから始めて、とりあえずとりあえず描くっていうのもあるし、最初からとりあえずとりあえずというのもある。

K:とりあえずだけど、そこで上手くいかないと違和感があるんだ?

O:自分ルールみたいなのが多少なりともあると思いますね。ここをこうしたらなんか気持ち悪いみたいな。それをまた「ドーーーーンッ!!!」とぶっ壊したい。「このまんま、同じことをしていてもだめだ!あかん!」と。もう、自分ワールドです。そこでちょっと変えたモノを描いている自分もいますね。楽しんでいるようで苦しんでいるようで。そこにも壁があるんですよ、きっと。

K:絵でも「乗り越えた」と感じるときがある?

O:描いてる途中でありますね。「これはあかん!………ドーーーーンッ!!!」っていう瞬間が一番いいっすね。「この絵はあかん。この流れはあかん。どこかで潰したろう」って。

K:好きな画家はいる?「この絵が好き!」とか。

O:会田誠さんとか岡本太郎さんとかは好きです。(具体的に)どの絵が好きっていうのはあんまりないんですけど、考え方とかですね。youtubeで語っている動画を見たりして、それで、「ああ、それわかるわ」って思うときがあった。自分もエログロを描いていたので、会田誠さんを見つけたときはテンション上がりましたね。「うわ、こんな人いるんだ」って。めちゃくちゃすごいじゃないですか。めちゃくちゃ細かいですし。自分じゃできないことがたくさんあるので、「すごいなー」と。あの脱力感もいいじゃないですか。会田さんの。あの自由な感じの、むっちゃ好きなんです。

 

『碧邦さんの絵作品』

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↑ いとこさんとの合作らしい。
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K:お笑いを意識し始めたのはいつから?

O:小学生ぐらいから。笑い取りたがりでしたね。むちゃくちゃ目立ってはなかったと思いますけど、要所要所で取りたいなって。「笑かしてやろう」っていう気持ちもありますし、「これが自分だ!」という個性を作る上で、その自己表現のひとつとしてお笑いがありました。

K:個性?

O:目立ちたいがゆえの、他人とちょっとズレたことをしたいという欲求がけっこう強くて。時期によって波はありますけど。高校生のときはそれが露骨にありましたね。必死でした(笑)高校のときは「おまえ、おもしろいな!」って思われたくて、言われたくて、ちょっと努力しました(笑)

K:努力したんだ(笑)具体的にどういう努力をしたの?

O:youtubeのお笑いの映像を見て、ノートに書いて。

K:それは芸人さんたちのネタを?

O:そうそう。自分は特定の芸人さんばっかりでしたけど。野性爆弾さんとか。特に、野性爆弾の川島さんなんですけど、ほんまに自由にやってる感じで「自分に似ているなあ」って思ったんですよね。自分のやっていることを極めたら、あんな感じに、川島さんみたいになるのかなって。

K:理想の笑いが、野性爆弾の川島さんという方で、それは今も変わらない?

O:うーん。今は芸人もやってますし、「ちょっと超えたいな」っていう想いが(笑)だから、やっぱり自分のオリジナルを作りたい。「川島さんみたいだね」って言われるのは嫌なので。あとは、天竺鼠の川原さんも。このお二方は特に見てました。自分がおもしろいと思ったところはぜんぶメモって、 高校生のときはそれをけっこうそのまんま使ってました。最近はそれを応用するようにしてるんですけど。

ちなみに野性爆弾さんたちのネタ動画はこちら↑

 

K:アウトローな笑いだよね。ただ、世間の目が怖かったりもするんでしょ?

O:世間の目というよりは、「罵倒されるんじゃないか?」っていう想像が膨らむ。それが怖い。女の子に告白しようとするとき、「フラれるんじゃないか?」という想像が膨らむけど、そういう感覚なんですかね。

K:なのに、「アウトローでいたい」っていうのは難しいところだよね。

O:そうなんですけど、それで引きこもってた時期もあったんですよ。なかなか外に出られない。もうぜんぶが嫌になって。

K:なにが嫌になる?

O:ひとつひとつのことにすごく考え出しちゃうんです。外に一歩出るにしてもなんか色々と考えてしまう。例えば、「歯磨きしなきゃしなきゃ」って思うと、 「歯磨きってなんだろう?」って考える。「告白しなきゃしなきゃ」って思うと、なんか(想像が)膨れ上がっていくじゃないですか。「そこにいる女の子に声をかけたいなー」と思っても、それで声をかけられなかったら負け癖がついたりとかして、細かいところを見たらいっぱいありますね。どっかで引っかかってますね。

K:それが積み重なって引きこもった?

O:そうですそうです。それの積み重ねで、膨らんで、引きこもるっていうことになるんです。

K:たしかに、「声をかけたいけど声かけられない」という小さなところまで積み重なっちゃったら、自信なくすし引きこもった方が楽なのかなって思った。

O:そこで前に出れない自分にすがりたくなってきて、前にいけない方向にどんどん進んでいって、負け癖みたいなモノがついてきて。それがどんどんたまると動けなくなる。当たり前にやってきたことができなくなる。それでも「やんなきゃやんなきゃ」っていう気持ちはあるんですけど、身体が動かなくて。壁みたいなのがどんどん分厚くなってきて、いつの間にか外にもいけず、パソコンをいじってる。そのうち、パソコンいじるのも嫌になって、健康的なんですけど、ずっ と寝たきりになって。親もやっぱり心配するじゃないですか。それもそれで、重荷で「うわー!」ってなってたときがあるんすよ。

K:それはいつごろ?

O:あ、ちょうどこの絵を描いていたときです。これを描いているときがピークでした。引きこもってたときなので、絵が暗いと思います。(真ん中あたりに)目があるじゃないですか。これが自分なんですよ。あと、口があって。で、周りのやつが世間の目なんですけど。

 

599108_341757762602258_2087485510_n【碧邦さんが引きこもってるときに描いた絵。

真ん中の目が碧邦さんで、他人の目(左側)と鉄のような社会(右側)に押し潰されている。】

 

K:押しつぶされてる感じですね。そうなると、周りにいる人の顔みたいなのがすごく残酷に見える。かわいくてお茶目な感じなのに。

O:そういう感じも出したいっていう葛藤もあるんですよね。だからなんかこう、「新しい刺激と向き合っていかないと自分が崩れていくなあ」って思って、たとえば絵を描くことで、ひとつひとつのことに嫌でも向き合う。壁を作りまくってると、押しつぶされそうになる。でも、向き合うことで自分がすごくスッキリして、エネルギッシュになっていけるじゃないですか。他人からの期待も「応えなきゃ応えなきゃ」って思うほど空回りするけど、でも実際に応えてみて、 「パーーーンッ!!!」ってしたら肩の荷が軽くなる。時の流れが経てば経つほど、重くなってくるんで、自分の中で処理しなきゃいけない。でも、そういうのってすぐ来るから、「ポン!ポン!ポン!」って壊していかないとつらいっすね。それができているときは調子いいですね。新しいことにどんどん挑戦していけます。

K:調子いいときはビビる期間が短い?

O:あ、そうですね。今は即決。自分の中でパッパッと動けてるなあっていうのがある。あんまり躊躇してない。

K:それはいいことなのか、悪いことなのか。

O:どっちもじゃないですか。どうしてもどっちも出てきますよ。何をやっていても。どうしても出てくる。やっぱり引きこもっていないと、(高尾山を)匍匐前進したときみたいな爆発力は出てこないです。

K:え、じゃあ今って、逆にいうと、自分のなかで「しょぼいなー」って思ったりするの?

O:思いますね。時々、思います。

K:へー。調子いいけど、しょぼいんだ。

O:なんかこう、なんでしょうね。こう、波が弱いというか。たしかに安定して撮れているというか、「ストレスのない生活は送れているのかな?」って思うんですけど、その匍匐前進のときに感じていたようなワクワクだったりとか、「うらぁ!!生きてるぞ!!」っていう感じではあまりなくて。だから、どっちかなんですよね、ほんまに。どっちを取るかっていうのは常にあります。

K:エネルギーを貯めないとほんとうに爆発したモノはできない?

O:安定していると、めちゃくちゃエネルギッシュなことはできないですね。

K:「じゃあ、引きこもった方がいいね」って話になっちゃうんだけど(笑)
引きこもっているときは、絵のほかにあとは何をしていたの?

O:あとは、youtubeでバカ動画を見てました。自分が感じている重荷から逃げるような感覚もあって、しがみつくように見るんですよ。「新しいのくれ!」って。麻薬みたいな感じです。

K:それは「笑ってテンションを上げたい」ってこと?

O:忘れたいんです。笑いたいっていう気持ちもありますけど、ちょっと一瞬だけでも忘れられるじゃないですか。長い目でみたら、効果的じゃないですけど。 でも、それも嫌になって途中からはベッドで寝てましたね。パソコンってSNSも見ることができるので、まわりの情報が入ってくるから、それもちょっと嫌なんで、観たくないときもありました。

K:何もせずにベッドにずっといると、色々と考えちゃうよね?

O:だから、寝ようとするんですよ。寝るのが一番忘れられるじゃないですか。寝ることで忘れようとするんですけど、どんどん気力がなくなってきて。「どうやって回復したのか?」というのは覚えてないんですけど、そこでひとつひとつの小さな壁を乗り越えたんですよね。「まずはパソコンを開こう」って。「俺イケる!俺最高!」ってテンション上がるときもあるんですけど、そういうときはすぐ疲れてすぐ戻るっていうのを繰り返してました。

K:引きこもっていて、「このままだとアカン」って思うのはやっぱり焦りとかあったの?

O:自分に対して申し訳ないっていう気持ちが強くて。すごく情けない気持ちとか、ほんまに何してんのやろっていう気持ちとか。俺はもうこんなに迷惑かけたし、言い訳してる自分がむかつくし、「もっといけるだろう、もっといかなきゃ!」とか、自分をもっと痛めつけるように、自分の気持ちを引き締めたかった。 高尾山を匍匐前進で登るときもそうなんですよ。けっこう上がったり下がったりしているピークのときで、「このままだとあかんわあかんわ」って思って、匍匐前進したんですよ。「高尾山だけは絶対に登ったろう」っていうのがあったんで、自分の中で意志が強かったんで、外に出て、そっちにしがみつく感じだった。「日常に戻したらあかん」と思って、なんかもういろんな申し訳ない気持ちとかいっぱいあったんですよ。

K:それはかっこいいな。そういう強い気持ちだったんだ。

O:なんか自分で言うのも恥ずかしいですけど(笑)

K:最初のコンセプトは、「匍匐前進で高尾山を登る」っていうところまで?

O:そう。

K:あれ、ラストが素晴らしすぎるでしょ?あのオチ。あれは山頂に到着するのがたまたま夜だったの?それとも狙ってやった?

O:狙ってない狙ってない。だから、ほんまにわけわからん感じの状態で、わけわからん感じで涙出て。

K:そうそう。しかも、夜で、灯りが付いている街があって、そもそもの設定が大戦中の日本兵が高尾山を登るってことで、街の灯りを見て、戦争が終わったことを実感するというラスト。あれがアドリブってこと?

O:そうそう、カメラマンが「何か言ってくれ」って言うから、それで言ったわけです。登ったときの気持ちとか色々と混ざった感じですかね。

K:あれはウケ狙い?

O:どうなんすかね?笑ってほしいっていう気持ちがけっこう強いんですけど、でも感動してたんで。

K:あの動画は魂の一発で、けっこう感動的だけど、やっぱり笑ってほしい?

O:壁を乗り越えたところを見せつけたかったんですかね。俺がyoutubeを見てて、バカ動画とかですけど、それで「この人たちはこんだけアホなことして、でもこんだけ平然としている」と思ったら、自分の悩みが小さく見えたりして。「じゃあ、俺もいけるやん」とか「そんな大した壁じゃないじゃん」って心の助けになったので、自分がバカ動画を見て感じたことと同じ感覚を与えたい。そういうリアクションほしいっす。あと、でも、やっぱり笑いもほしいっす (笑)「おもろい!やばい!」とか言われたいです。言われたいですし、綺麗事ですけど、勇気を与えたいっていうのもありますね。真面目なとこ語るとバカ侍らしくないんで、あれなんですけど(笑)

 

これが渾身のバカ→『「THE 匍匐前進だけ。」 in 高尾山』

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【編集後記・雑感】

 「『ジャッカス』&野性爆弾の川島さんのようなバカ」と「磨き残しが気持ち悪い」という2つのフレーズがすごく大事なのかも、と思った。碧邦さんをインタビューさせてもらってすごく感じたのは、人間味あふれる素敵な方だな、と。まず、自分では変えることのできない“おもしろいモノ”があって、それが社会とぶつかって、もがき苦しんでいる。ぶっ飛んだ“バカ”が好きなのはもうこればっかりは仕方がない。理解されないときもある。じゃあ、その大好きなアウトローな笑いで、社会を笑かすにはどうすりゃいいのか?という試行錯誤。「妥協点はどこか?それとも力でねじ伏せるか?」という、そういった試行錯誤こそが美しいし、その葛藤ともいえる感情は人間らしさのひとつでもある。
 碧邦さんを複雑にしているのはもうひとつ「磨き残しという感覚」だと想像する。アイデアやセンスが生まれるきっかけは経験だ。『ジャッカス』や野性爆弾の川島さんの動画を熱心に見ることで、アウトローな笑いを“経験”した碧邦さんは、ふとした瞬間に「これやったらおもろいだろうな」というアイデアが思い付くのではないか。そのアイデアは習字で言うところの見本であり、その思い付いたアイデアを達成しないことは「磨き残し」となって「気持ち悪さ」が残る。日常生活において、もしも「これやったらおもろい」が思い浮かんでしまったら。それが『ジャッカス』や野性爆弾の川島さんのようなアウトローなぶっ飛んだ“バカ”だとしたら。そして、社会のリアクションという“壁”に恐怖を感じる性格だとしたら。でも、それを実現しないことは「磨き残し」であり、「気持ち悪さ」に繋がる。すべては仮説でしかないけれど、その「気持ち悪さ」の積み重ねとして、引きこもるという選択肢があったのかもしれない。そんな恐怖との闘いの中で、そいつをぶち壊すために必要だったモノは「自分にとって最高におもしろい」と信じることができるモノであり、それが『高尾山を匍匐前進で登る』だった。
 信じることができるモノは、人それぞれです。そして、それが爆発したとき、たとえば『高尾山を匍匐前進で登る』という作品が生まれる。これほど美しいことはない。あまり美化し過ぎると、バカ侍っぽくなくてちょっと問題アリな気もしますが(笑)でも、ただ単純に、彼がバカをやってるのを見て、どんどんと(危険な方向へ)頑張っている姿を見て、彼にとって「最高だと思うモノ」をひたすら破壊し突破していく姿を見て、それを何かの力に変えてくれたらと思っています。それが笑いという快感なのか、勇気というきっかけなのか、はたまた別の何かなのか。それはきっとそれぞれの個性によって違ってくる。

 …それほど決死の覚悟で実行した『高尾山を匍匐前進で登る』なのだけど、「けっこう時間経ってるのにいまだに匍匐前進を越えてない自分がちょっとむかつ く」らしい(笑)他人からも過去の自分からも常にアウトローでいたいという気持ちは、彼の「宇宙に第二ビックバンを起こすバカ」という言葉によく現れている。そんなバカ侍に立ち塞がる次なる“壁”は、こちら↓。

 

『つばもん〜あなたのツバを下さい〜 “めざせ!つばもんマスター!』

 「道行く人からツバをもらう」というすごくシンプルだけど、それって道端で話しかけられても絶対についていっちゃいけないってお母さんに言われるタイプなわけで、けっこうギリギリなラインを攻めてます。

 

 そして、もうひとつ。『SUCKERS / サッカーズ』というドラマにも不良役のおバカ役で出演中!個人撮影の動画コンテンツが盛り上がりを見せる中で、数人の仲間で集まってしっかりと台本から撮影、編集までやっている本格的な映像作品。
『SUCKERS / サッカーズ』〜change the future!!〜

七人の高校生が、動画で未来を変える!?

監修 : Studio H&M’S
協力 : HUNEY SOCCER、ラフハウス、時事ジュースZ、バカ侍s
撮影 : Kosei Yanagihara(DHU)

 

現代美術家:ダミアン・ハースト

ダミアン・ハーストについて。

現代美術家。ロンドン大学・ゴールドスミス・カレッジ出身で、YBA世代の代表格。1995年にはターナー賞を受賞し、雑誌「Complex」による「存命する芸術家の長者番付TOP15」で堂々の1位に輝くなど、アート市場でも彼の作品は高額で取引されている。彼の「For The Love Of God」という作品は、2007年に約5000万ドルで落札された。

http://blog-imgs-18.fc2.com/k/a/n/kanaparis/image_46438537.jpg

フランスアート界底辺日記より)

 「アートや芸術が人々にとってもっと身近なモノになればいいなあー」という意図もあって始めた『sphinx』ですが、9人目にしてようやく純度100%の芸術家が登場するというずさんさ。しかし、このダミアン・ハーストは最初にして最高の芸術家でございます。現存する芸術家のなかで最も稼いでいる男だということも理由のひとつ。芸術家の長者番付 1位はダミアン・ハースト、村上隆は6位 | 2012年02月12日 | Fashionsnap.com

 「アートは難しい」と言われるけど、ブレない前提として、①まず、個性ともいえる「核心」があって、②その「核心」を社会に伝えるために必死に試行錯誤をすることが「芸術」である、と。それは漫画もファッションも陶芸もロボットもすべて同じ「手段」であって、「アート」もまたそのうちの「手段」であるということ。

 

①ダミアン・ハーストにとっての「核心」とは?

→それは「死」である。

解説に入る前に、なにはともあれダミアン・ハーストの作品を紹介します。

まず、大学卒業後くらいの初期作品のひとつ『一千年』。

片側に設置された白い箱には蛆が培養されており、もう片側には牛の頭が設置されている。
ハエは牛の頭に卵を生み蛆は牛の頭を食べて蝿になる。
また牛の頭が設置されたボックスの上部には殺虫灯が設置しており、死んだハエはそのままになっている。

 

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ダミアン・ハースト「千年」 – pastport

正直、そうとうむちゃくちゃな作品。しかも、25歳のときの作品。

・『一千年』を作ったとき
このとき僕がはじめてつくり出したのは、コントロールできない独自の生を持ったもの、僕のコントロールの外にある何かだった。「僕はいったい何をやっちまったんだ?」というフランケンシュタイン的な瞬間を味わった。最初のハエが殺されたときは「おっと、ファック」って感じだったな。byダミアン・ハースト(美術手帖2012年7月号)

 

そして、ダミアン・ハーストの代名詞として有名なホルマリン漬け作品たち。

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The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living – Damien Hirst

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Mother and Child (Divided), Exhibition Copy 2007 (original 1993) – Damien Hirst

そして、『神の愛のために(For the Love of God)』。

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For the Love of God – Damien Hirst

他にも色々。

 蝶々を素材に使った『Butterfly Colour Paintings』や、薬局をそのまま作品にしたかのような『Medicine Cabinets』などなど。ダミアン・ハーストの作品には、生き物や医学、お金といった一見脈絡のない素材が多い。しかし、そこにひとつの「核心」がある。

7歳のころから死についてはずっと考えていた。誰もが死ぬとはじめて知ったとき、そのことが頭から離れなくなった。(中略)そのころ祖母を亡くした。彼女とは親密だった。親に話すよりもずっといろいろなことを話していた。(中略)「おばあちゃんは死んだらどうなるの?」と聞いたこともある。死を避ける方法がきっとあるはずだと思っていたけど、7歳のときにそれは不可能だと知った。byダミアン・ハースト

 

「年を取っただけで死ぬなんてありえない」と思っていた。そんなことは完全に間違っていると感じた。でも、神や宗教や他のどんなことよりも――もちろん父親に騙されるクリスマスよりも――それは確かなことらしかった。それがわかってから、ひたすら意地になって考え続けた。今も変わらずそうしている。でもそれによって生が輝きを増すことになる。byダミアン・ハースト

(美術手帖2012年7月号より)

 「死」があるからこそ、「生」がある。「死」を突き詰めると「生」が見えてくる。生きているからこそ死ぬのだし、死ぬからこそ生きていることを実感できる。きっとダミアン・ハーストは子どもの頃からずっと「死」という存在を考えていて、彼がてがける作品からは彼なりの答えが不吉さと一緒に滲み出ている。

 蛆から蝿が生まれ、その蝿は殺虫灯で死んでいく、そんな生死のスパイラルを『一千年』という作品で表現した。死んだ動物がまるで生きているかのように保存され続けるホルマリン漬けの作品たちがあり、「死」の象徴・頭蓋骨がダイヤモンドで飾られてキラキラと生きているかのように輝く。「死」と「生」がひとつの作品において共存している。それこそがダミアン・ハーストの核心なのかもしれない。

そして、「では、死を克服するにはどうすればいいのか?」と必死に考えたのではないか。

宗教か?医療か?科学か?お金か?どうすりゃいいんだ?と。

 

 

②ダミアン・ハーストの「核心」を社会と接点を持ちえるには?

 まず、「核心」があって、それはつまり「快感原則」であり、「好き」であり、「興味関心」であり、「個性」でもある。その「核心」を社会と接点を持ちえるようにすることが芸術である。「死」の裏返しこそが「生」であり、2つは切り離すことができないという「核心」を社会に出現させること。そのためにはアイデアが必要だ。

そこで、大事なキーとなるのが、

・ソル・ルウィットやドナルド・ジャッド

・ブルース・ナウマン

・自然史博物館

である。

 

なんのこっちゃという人が多いと思うので、少々解説を。

まず、「ソル・ルウィット」や「ドナルド・ジャッド」。

彼らは、1960年代に流行した「ミニマリズム」の芸術家たち。

 芸術の表現方法にも流行り廃りがあって、「ミニマリズム」誕生のころにダミアン・ハーストも生まれている(1965年生まれ)。「ミニマリズム」とは、「装飾的・説明的な部分をできるだけ削ぎ落とし、シンプルな形と色を使用して表現する彫刻や絵画」である。

例えば、こういうの。

Sol LeWitt ‘Two Open Modular Cubes/Half-Off’, 1972 © The estate of Sol LeWitt

‘Two Open Modular Cubes/Half-Off’, Sol LeWitt | Tate

Donald Judd ‘Untitled’, 1980 © Donald Judd Foundation/VAGA, New York and DACS, London 2014

‘Untitled’, Donald Judd | Tate

シンプル…

 何に影響を受けたのか?ということは、作品を理解する上ですごく大切なことだと思っている。つまり、理解しやすい。すべてがすべてそうであるとは言えないけど、作品を理解する上で(あるいは、「個性」を理解する上で)ひとつの補助線にはなり得るはずだ。

例えば、ソル・ルウィットの作品と、

https://lisson.s3.amazonaws.com/uploads/attachment/image/body/1566/LEWI040010_1.jpg

Wall Drawing #1138: Forms composed of bands of color | Sol LeWitt | Artists | Lisson Gallery

ダミアン・ハーストの初期作品。

overview

Boxes – Damien Hirst

影響うけすぎ。

ただし、アートはそういう過去作品の引用で成り立っている。

 というか、よく言われることだけど、この現代においては、まったくもってオリジナルなモノは存在しない。すべてが過去の某かの影響を受けている。言語や建築物(という環境)からも人格形成においては影響があるわけで、過去延々と連なるモノの集合として「個性」はある。

ダミアン・ハーストは、「ミニマリズム」が好きだった。まず、これ。

 

そして次は、「ブルース・ナウマン」。

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http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/2009-06-30

アメリカの現代芸術家。けっこう好き。

日本で彼の作品が見られるのは、直島・ベネッセハウスにある『100生きて死ね』。

Photo

http://wajin.blog.eonet.jp/spatial/2009/02/100-f744.html

100生きて、100死ぬ。

そんな地道な経験を通じて、ようやく出会える「美しさ」もある。

ブルース・ナウマンの有名作はこちら↓

http://2.bp.blogspot.com/_xG54sAYqWZM/S_6EpThcZgI/AAAAAAAAVkY/qfa3pN6we1Q/s1600/IMG_4075.JPG

The True Artist Helps the World by Revealing Mystic Truths

「真のアーティストは、神秘的な真実をあかすことで世界を救う」

 ダミアン・ハーストは、このブルース・ナウマンをベタ褒めし、「アーティストは、作品を通じて何かを語っているのだと観客に錯覚させる」と言う。そして、「自分が感じさせたいことをそのまま見る人に感じさせる」ような広告っぽさを、ブルース・ナウマンの作品から感じ取っている。動物をホルマリン漬けにして、時には切断するなんていうのは、めちゃくちゃインパクトがあってキャッチーなわけです。

 

そして、最後に「自然史博物館」。

ダミアン・ハーストが「子どもの頃から大好きだ」と語る「Natural History Museum(自然史博物館)」で検索してヒットした画像たち。

http://image.mapple.net/img/user/00/00/13/24/H0000132409.jpg

http://static.guim.co.uk/sys-images/Guardian/Pix/pictures/2014/3/26/1395850091864/9c07a114-5cc9-4aec-b1cb-192b27b8d991-460x276.jpeg

 

ここまで来ると「あー、なるほど」感ないですかね。

ダミアン・ハーストは、彼の「死」に関する核心を、

彼の心を掴んで離さない「モノ」を利用して、社会との接点とした。

すべてが「個性」で成り立っている。

芸術とは何か?

それは、「核心」であり、

「快感原則」であり、

「好き嫌い」であり、

「興味関心」であり、

「個性」である。

 

「独特な発想」あるいは「センス」とは結局、「経験」なのかもしれない。

シンプルな四角いガラスフレームはミニマリズム。

広告的で何かを語っている(と錯覚させる)手法はブルース・ナウマン。

動物を作品として利用するのは自然史博物館。

 

 もちろん、ダミアン・ハーストの作品を構成している「発想」は、これだけではない。人間あるいは人格というモノは、そこまで単純なモノではない。たとえば、暗く、人々を不安な気持ちに陥れるフランシス・ベーコンの影響だったり、ショッキングな作品が多いYBA世代だったり、解剖学博物館に通ったり、ガラスに対する偏執的な恐怖心だったり。つまり、人生において何を通過したか?ということ。

 そして、鑑賞者の直視に耐えうることができるという意味で、ダミアンハーストの『Natural History』シリーズ(ホルマリン漬け作品)は、最高にバランス感覚がいい。「死」という不吉さを残しつつも、独特の静けさをもった水やガラスの「美しさ」がある。ダイヤモンドスカル『For the Love of God』はもうその典型で、「美しさ」のなかに「死」が隠れている。インパクトという意味での破壊力は圧倒的だ。質量感というか、重量感がすごい。つまり、人を惹き込む「美しさ」がある。そして、ダミアン・ハーストは社会との接点を見出すのが上手い。「死」に触れたくはないけど、でもちょっと覗いてみたい。そういう願望は誰もがきっと持っているはずだ。『一千年』は正直、ちょっとやりすぎ感あるというか、直視できない。だけど、ホルマリン漬けの『Natural History 』シリーズやダイヤモンドスカルの『For the Love of God』はじっくりと見ることに抵抗はない。むしろ、じっくりと見ていたいと思うほどに美しいくらいだ。社会が求める「美しさ」に対するダミアン・ハーストのバランス感覚(あるいは、それを僕は「美術」と呼ぶ)は、意図的か、それとも無意識かどうかはわからないけど、やはり素晴らしい。

 

子どもの頃から、ダミアン・ハーストを掴んで離さない「死」という存在。

ダミアン・ハーストは、それを社会との接点を持ちえる「芸術」に変えた。

純粋な「死」に対する好奇心を、あれほどの重量感をもった非現実的な存在に変えるという人間のスゴさ、おもしろさがそこにある。同時に、それはダミアン・ハーストの個性であり、彼の「美しさ」でもある。

飛行機設計家:堀越二郎

堀越二郎について。

飛行機の設計家。1903年生まれ。東京帝国大学の航空学科を首席で卒業。三菱内燃機製造に入社し、飛行機の設計に携わる。1932年『七試艦上戦闘機』、1934年『九試艦上戦闘機』といった飛行機の数々を生み出し、『零式艦上戦闘機(通称、零戦)』の設計も行なった。

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宮﨑駿監督による映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎。

 「美しい飛行機を作りたい」という核心を幼少の頃から持っていた男。

 日露戦争の直前に生まれ、子供時代は20世紀の世界大戦時代と重なる。

 映画『風立ちぬ』において、堀越二郎は魚の骨にさえ飛行機の骨格美を見出しているのだけど、それほど飛行機というひとつの美しさに魅了されていた。美しさと機能は両立すると考えていたようで、「ねじりさげ」や「沈頭鋲」など、数々の新技術を開発し、『零式艦上戦闘機』という飛行機を完成させた。

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『零式艦上戦闘機』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:A6M3_Model22_UI105_Nishizawa.jpg

 

機体を軽くするため、防弾性能がなかった零戦に戦後、「人命軽視」と批判が出た時も、「(防弾用の鋼板を)外さなきや性能は出せっこねえ」と声を荒らげるなど、手掛けた飛行機への愛着は人一倍だった。

宮崎駿監督作品「風立ちぬ」主人公のモデル堀越二郎とは【戦闘機 ゼロ戦 雷電 烈風など設計】
 あるいは、とある映画レビューサイトで『風立ちぬ』のレビューを眺めていたら、堀越二郎の「1機も戻って来ませんでした」という台詞に対して「人が死んでるのに1機ってなんだ。1人も、だろ!」と怒っていた人がいた。

 

 堀越二郎にとって、人の命よりも、一機の美しい飛行機の方がよっぽど美しい。

自分にとっての美しいモノ、自分にとっての核心、自分にとっての快感原則。

堀越二郎にとっての美しいモノ、堀越二郎にとっての核心、堀越二郎にとっての快感原則。

 

 そして、美しいモノや核心、快感原則は、時に狂気になり得る。

子どもの頃の純粋な気持ちすらも、コロッと簡単に狂気になり得る。

僕はそれを「美しい」と感じてしまう。

僕がヒーローモノの作品で、悪役に惚れてしまうのはこの「美しさ」による。

 エレクトロが抱くスパイダーマンへの憧れ。最初は純粋な気持ちだったのに、何かの拍子に歯車が狂って、悲劇へと突き進む敵キャラが好きすぎるのです。

 先週紹介したRino stefano Tagliafierroの、『SNUFF MOVIE』のような残酷趣味は、世間あるいは社会においては危険なモノになり得る。つまり、実践=犯罪なのだ。だからこそ、芸術というフィクションが必要になってくる。『風立ちぬ』の監督・宮﨑駿も、子ども向けアニメーションを作る傍ら、兵器(とくに飛行機)好きとしても有名である。『風の谷のナウシカ』でのメーヴェや『天空の城ラピュタ』でのフラップターなんかもそうですし、『紅の豚』は特に。(宮崎駿監督作品 架空兵器集 – NAVER まとめ)子どもの頃に得た快感原則が、日が経ち徐々に膨らみ始め、社会との折り合いがつかなくなったとき。どこかで社会とズレてしまったとき。フィクションが必要になってくる。

 

たとえば、漫画家・平野耕太の『HELLSING』アニメ版に登場する「少佐」の演説シーン。

 戦争はよくない。しかし、何かの偶然で、「戦争」という物語に惚れ込んでしまう、そんな「個性」が生まれることがある。それは「わかっちゃいるけど、好きなんだ」という矛盾。ぐちゃぐちゃとした感覚、イメージ、人間らしさ。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』をひとつの例として、芸術作品はずっと人間の矛盾がテーマとなっている。

 「美しい飛行機を作りたい」という純粋な憧れが、世界大戦という時代と重なったとき、それは殺戮兵器へと変わる。それは偶然でしかない。変えようもない現実がある。いつどこで生まれるか?ということは、自分で決めることはできない。道端で偶然すれ違う人を自分では選べない。「自分」という存在を越えた「大きな何か」がそこにあって、僕らの個性はそこにぶち当たる。「いい」「悪い」の判断は難しく、「戦争=悪」という常識があるからこそ、『零戦』は「殺戮兵器」となったわけで。

 設計という学問(=理性)をしっかりと身につけた上で、自分にとっての「美しい飛行機」(=感性)を追い求めた堀越二郎という男を、僕はとても美しいと感じる。その純粋なる個性が、時代と錯誤したときなど最高にテンションが上がる。世界を覆い尽くしかねないほどの強い核心と、どうしようもなく無慈悲な現実と、そしてちょっとした狂気を孕む切なさ。それは、『虐殺器官』のジョン・ポールであるし、『封神演義』の聞仲であるし、『日の名残り』のスティーブンスであるし、『バットマン』のジョーカーでもある。 善悪や現世的利益を超えた存在である彼らを、僕はとても美しいと感じる。

映像作家:Rino Stefano Tagliafierro

Rino Stefano Tagliafierroについて。

フリーランスの映像作家。実験映像やミュージックビデオ、ファッションブランドの広告映像を手掛ける。2011年以降、フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭など、数々の賞を受賞。イタリア出身。

 少しまえに日本のネットでバズったことのある映像がある。

 言わずもがな、上の映像なのだけど。某バイラルメディアでは、fbでのシェア数がおよそ9000のようです。すごいですね。モーフィングという映像技術が使われているようですが、まあそのあたりは割愛することにします。非現実的な動きをする2人の少女に「美しさ」を感じる、そういう映像。

I love to transform reality into something new and surreal, and I’ve often put myself to the test with music videos for Italian and international artists such as Four Tet, Stumbleine, Digitalism, Mobbing, M+A, Orax, Fabri Fibra, Morgan and Big Fish. Within the fashion world, I have made videos for Antonio Marras and Kenzo.

An interview with Rino Stefano Tagliafierro on ‘Beauty’, the animation video with paintings moving – Swide

とあるインタビューでのRinoさん(とお呼びすればいいのかな)の言葉。

 注目したいのは「I love to transform reality into something new and surreal」のところ。特に、surreal。Rinoさんにとって「surreal」はものすごく大きな快感原則なんだと思う。日本語でいえば、「超現実(主義)的な」という意味。あるいは、「シュールレアリズム」とカタカナ英語で言われるモノ。20世紀の美術界で流行った制作思想・方法のことである。「超現実」という言葉通り、「非現実」ではなく、あくまでも現実の延長として存在する。

例えば、こういうの。

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ジョルジョ・デ・キリコ(http://www.ilemare.com/archives/1483

http://atokore.com/img/Image/186/image.jpg

サルバドール・ダリ(http://atokore.com/recipes/p/251

【絵画】超現実的な一枚【シュルレアリスム】 – NAVER まとめ

【写真】超現実的な一枚【シュルレアリスム】 – NAVER まとめ

 ちなみに、「surreal」でgoogle画像検索すると、「surreal」な画像がたくさん出てくるのでオススメです。「ああ、こういうのね」って感覚で理解できるかと。

 フロイトっていう精神分析学者が、無意識という概念を発見したことによって、シュールレアリズムが生まれたといっても過言ではない。夢や無意識、非合理といった心の世界を探求し、それを表現するのがシュールレアリズム。「夢」を例にするとわかりやすいけど、「夢」は現実に起きた経験・記憶の組み合わせによって構成されている。現実の断片ごっちゃ混ぜ。だから、そこを追求すること(つまり、夢や無意識などを作品のテーマにすること)は、現実の延長として、奇妙な世界となる。しかし、あくまでもシュールレアリズムは現実の延長なのである。

 そして、Rinoさんは現実をシュールレアリズムに変えることに(おそらく)興味がある。Rinoさんがシュールレアリズムをどのように解釈していたのかはわからないけど。特に、上記の映像の4分15秒以降で、少女2人がぐにゃぐにゃになりながら階段から落ちるシーンがあるのだけど、めっちゃシュールレアリズムっぽい。サルバドール・ダリっぽい。そのぐにゃぐにゃにモーフィング技術を加えることで、奇妙だけど美しい映像に仕上がっている。妙な動きが癖になる。

 そして、もうひとつ。シュールレアリズムの他にも、Rinoさんにとっての快感原則、つまりどうしようもなく心惹かれるモノがあるのではないか?と推測する。それを「残酷趣味」とここでは表記する。例えば、Rinoさんは2006年に『SNUFF MOVIE』という作品を作っている。かなり初期の作品。「SNUFF(あるいはSNUFF FILM)」とは、実際の殺人の様子を撮影した映像作品のこと。まあ、グロ耐性のない僕にとって、これ以上は踏み込みたくない領域なのだけど。しかし、Rinoさんの作品を見ていると、血とかそういう描写が多い。たぶん、なんとなく、予想でしかないけど、Rinoさんはそういうのに惹かれちゃう人なんだろうなあ、と。上記の少女たちの映像も、ハサミで喉を掻っ切るような仕草があるし、あとで紹介する『BEAUTY』という作品でも首を切るシーンがある。詳しくはこっち→(rino stefano tagliafierro brings master paintings to life

 Rinoさんはシュールレアリズムと残酷趣味が快感原則で、心惹かれてしまうのではないか。この2つがRinoさんにとっての核心であり、興味関心・好き嫌いなのではないか。ということを前提に話を進めるけど、残念なことに、多くの人にとってその2つは快感原則ではない。これが社会とのズレ。「この犬カワイイ!!」と同じレベルで、Rinoさんの『SNUFF MOVIE』がシェアされるはずがない。だけど、Rinoさんが制作した『M+A “MY SUPER8″』という映像はシェアされるどころか、賞まで受賞している。僕はこれをコミュニケーション能力の向上、あるいは社会との接点を見出すことに成功したと考える。つまり、「美しさ」でねじ伏せた。それこそが「美術」ではないか。

 モーフィング技術(あるいは、それ以外にもあるかもしれない)という「美しさ」によって、社会をねじ伏せ、自分の興味関心・好き嫌いを認めさせた。他人にとって無関心なモノや他人が嫌悪するモノを「美しさ」に変える技術。社会と自分の欲望との接点・妥協点を探ること。自分の快感原則の根本は何で、社会との共通点は何か?それを上手く伝えるためにはどうすればいいのか?美しさとは何か?自分の快感原則を伝えるための努力をすることが「芸術」なのだと思う。

ORAX “ROCKERS” from Rino Stefano Tagliafierro on Vimeo.

ちなみに、↑は、Rinoさんの最高傑作だと思う一作。

 モーフィングあり、シュールレアリズムあり、許容できる残酷趣味ありで、Rinoさん好み全開で、むちゃくちゃかっこいい作品。ORAXというバンド(?)のMVなのかな。

で、最新作はこれ。

B E A U T Y – dir. Rino Stefano Tagliafierro from Rino Stefano Tagliafierro on Vimeo.

完全に人類の完敗でしょ。もう「美」そのもの。

モーフィング技術で、凍ったままだった古典絵画を現代に甦らせた。

 「シュールレアリズム」とか「残酷趣味」はどこいった?という感じではあるが、この記事を読んだら納得感ある。(An interview with Rino Stefano Tagliafierro on ‘Beauty’, the animation video with paintings moving – Swide)Rinoさんはイタリア出身なので、古典絵画に触れる機会は子どもの頃からあったのでしょう。ORAX 『ROCKERS』で感じる「人間の肉体感」や、00:50秒あたりの白パンロン毛のイエス・キリストっぽさは、古典絵画の影響が感じられる。そこからどうしてシュールレアリズムにいくのかちょっとわかんないけど…上記のインタビューでは、「What do you want to be when you grow up?」と聞かれて、「Dalì, Dream Caused by the Flight of a Bee Around a Pomegranate a Second Before Awakening」と答えているので好きなんだろうなあ、ダリ。あと、「Your favourite one that you didn’t include(video)」の答えが妙に残酷なのが気になる。
サルバドール・ダリ作品画像集 – NAVER まとめ

 言われてみれば、ところどころでダリっぽさがあるような…なんとなくだけど、自分の快感原則を追求すると古典に行き着くのではないか?と思っていて、そういう意味で、晩年にはダリがルネサンスの宗教的モチーフに興味を持ったのと同様に(あるいはそのダリからの影響で)、Rinoさんが『BEAUTY』という作品を作ったのは個人的におもしろいなあー、と。

 

あと、たぶんだけど、Rinoさん、日本好きだわ。

「If you weren’t Rino Stefano Tagliafierro, what would you be?」

の答えが、「Yoshimoto Nara」なのは嬉しい限り。

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