陶芸家:樂吉左衛門

十五代 樂吉左衛門について。

陶芸家。千利休が認めた千家十職のうち、ひとつ・樂家。その十五代目。

450年もの伝統を背負いながら、自分が理想とする“茶碗”を作り続ける。

国内外問わず、数々の賞を受賞し、展示会も開催している。

先人たちが見出した高麗井戸茶碗を筆頭とするわびの価値を…
私が無駄を排し黒くすることで至高のものにしたと自負しております。
そして今あなたが…排したはずの無駄…即ち「自慢」と「泊」を含む染付けを……
不器用な筆致にて器肌になじませ新たな風情を生み出したのです。

されど、あなたの全てがこの器に乗り移っているとは思えませぬ。
あなたは世に何を広めたいですか?創ったものにて何をなさろうとしておりますか?
それがわからずば…創造する意味などなく、人々の心を打つことはないでしょう…
己を見つめ直しなされ。見つめて削いで最後に残ったものこそ…
古織好みとして真のわび数奇が扉を開きましょう。

 

以上は、漫画『へうげもの』より。

古田織部が作った「織部好み」の陶器に対する千利休の言葉。

僕が好きなモノは、言いたいことは、もはやこの台詞に尽きる。

 

 血で血を洗う戦国時代において、わび数奇を貫いた茶人・千利休。利休が「これだ」と選んだ茶道具こそが「名品」とされた時代があり、「名品」は一国一城ほどの価値にもなった。戦国時代において、千利休の影響力がとてつもなく大きかったことは容易に知れる。その利休が選んだ名品の数々は「利休好み」とも言われた。つまり、「利休好み」とは、「わび数寄」である。『へうげもの』にも描かれているように、利休は自分の核心たる「わび数寄」を、社会に広めるために「茶の湯」という手段を用いた。それは「わびた」茶室であり、「わびた」茶碗であり、「わびた」趣向であった。妙喜庵という茶室を始めとした「利休好み」の担い手は、千家十職という茶道具のスペシャリストたち。

・奥村吉兵衛(表具師)

・黒田正玄(竹細工・柄杓師)

・土田友湖(袋師)

・永樂善五郎(土風炉・焼物師)

・樂吉左衞門(茶碗師)

・大西清右衛門(釜師)

・飛来一閑(一閑張細工師)

・中村宗哲(塗師)

・中川淨益(金もの師)

・駒沢利斎(指物師)

 

「わび数寄」とは何か。

茶室が簡素であるのには理由がある。そこが空白であることによって、最小限のしつらいで、大きなイメージをそこに呼び入れることができるのだ。たとえば、水盤に水を張って、その水面に桜の花びらを浮かせて配するだけで、主客はあたかも満開の桜の木の下に座っているかのような幻想を共有することができる。by原研哉

 

 「わび」=「装飾性(無駄)を排し、人びとの心の交流を中心とした緊張感」を目指した千利休。(茶の湯 わび茶の成立装飾過多は、物事の本質が見えづらい。利休は、その「無駄の排除」という核心を、たとえば『黒楽茶碗』に見出した。千家十職のひとつ、茶碗師・樂吉左衛門による作品であり、当時は長次郎、現在は十五代である。「装飾性を排し、人びとの心の交流を中心とした緊張感が大事だ!」と言っても、理解はできても、「いやほんと大事だよね」と納得はできない。その緊張感を納得させるには、言葉ではなく、茶の湯という空間作品が必要だったのではないか。茶室に入る前に武士の命である刀を取り上げたり、一切の無駄を排した茶道具を使ったり、そういう演出によって「あ、そういうことか」とわからせようとした。

 

黒楽茶碗 長次郎作『黒楽茶碗』 http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00000872.htm

一切の無駄を排した茶碗

 

第194回 樂家十五代 樂吉左衛門(2013年1月3日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

 僕が「あれ?陶芸っておもしろいかも」と感じたのは、樂家十五代の話を知ってから。むちゃくちゃ素敵なこと言うてる。長次郎の『黒楽茶碗』が誕生してから450年。その長く重い伝統がある中で、自分にとっての理想に挑み続けている。

「土のままでいいじゃんかっていう話ですよね。でもやっぱりそこにどうしても自分が『黒くしたい』という強い意志が、自分の表現がやっぱりあるんですよね。だから表現というものに関わっている限り、『自己』っていうのは手放せないし、自然と一体になるといっても距離がある。by十五代 樂吉左衛門

 

理想の形はある。それをカタチにしたいという想いも。

 自分の核心がまずあって、たとえそれが社会との接点を持ちえることが難しいとしても、それでもどうにかして自分の核心を実現しようと必死な「ヒーロー」がここにもいる。ヒーローたちが必死に対抗するのは、このどうしようもない現実世界である。理想の茶碗と現実の茶碗の差異を、土を練り手びねりし釜で焼き上げることによって埋めようとする。それが陶芸という芸術だ。

 陶芸のおもしろさは、釜で焼くという工程にある。つまり、自分にとって「これだ!」という造形を、試行錯誤の末に作り上げたとしても、最後にもういちどだけ、偶然に満ちた「自然」に、自分の核心たる作品を委ねるということだ。理想のカタチを理性の力で実現する。それが絵画であり、彫刻であり、芸術である。陶芸は、理性によって「これだ!」という造形を生み出したあと、釜にいれて焼く。釜の中で赤々と燃え上がる「火」はコントロールできないので、焦げ付きや歪みなどの焼き上がりは予測不可能。釜の中で火がどういう動きをするのかわからないからだ。ああでもないこうでもないと悩み苦しみ、どうすりゃいいんだと絶望し、それでもどうにかして作り出した芸術を、最後の最後で「偶然」に委ねるという行為。なんとも言えない切なさと遊び心がここに存在する。

 芸術とは、自然の脅威などの予測不可能性に対するひとつの救いだった。絵画や彫刻は、宗教や儀式から派生しているし、その宗教や儀式は予測不可能な現実から解放されるために生まれた。この世界は見えない力にコントロールされている。つまり、津波は突然、人々を襲うのだ。そういう偶然という恐怖から逃れるために、偶然性を排除してコントロールするために、家畜や農業を発展させ、巨大な都市を構築し、科学を追い求めてきた。今も昔も、自然(=偶然)は、人類にとって恐怖でしかない。

 

しかし、陶芸は違う。

最後にもういちどだけ、この理不尽で残酷な偶然世界に、自分の作品を委ねる。

 偶然は、時に美しい。自然界に同じモノ・同じ瞬間は存在しないからだ。その一瞬一瞬で、変化し続ける。その切なさ、儚さ。まさに一期一会。もちろん、いつ行っても同じ光景が広がる都市は安全だ。いつ計算しても同じ結果の出る数式は便利だ。しかし、一度として同じ瞬間のない偶然世界は、いつまでも見ていたいと、ずっとこの時間が続けばいいのにと、そう感じさせてくれるほどに切なくて美しい。その美しい刹那を、その偶然の一瞬を、時に理不尽な偶然に、最後にもういちどだけ共存しようと歩み寄ることこそが、陶芸なり。偉大な自然がもつ美しさ。それが陶芸の魅力だ。

 

本阿弥光悦『黒楽茶碗 村雲』(http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaki/rakuyaki/rakuyaki.htm

十五代 吉左衛門『焼貫黒楽茶碗 天阿』http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaki/rakuyaki/rakuyaki.htm

十五代の黒楽茶碗…

めちゃくちゃモダンだ。

伝統を(例えば、本阿弥光悦の『黒楽茶碗 村雲』)重んじる一方で、

“イマドキ風”な前衛的なデザインを実現しているのはすごい。