素朴な疑問なんですが、人間はどうして感動するんだろうか?

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「息子の精神病を治してください」

ひとりの老人がそう祈るのを聞いてふと足を止めた。

それは去年、高野山に行ったときだった。高野山の奥の院、そしてそのさらに奥にある弘法大師・空海が眠る(入定する)御廟の前で。ひとりの老人が背中を丸めて両手を合わせて、弘法大師・空海に向かって、ずっと、ずっと、一生懸命に頭を下げて祈りを捧げていた。

「南無、弘法大師さま。今まで見守ってくださってありがとうございました。おかげさまで心臓の病気が治りました。どうか、息子の精神病も治してください」と。

何度も

何度も何度も

何度も何度も何度も

何度も何度も何度も何度も

何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

「お前に、他にすがるモノはねえのかよ!」とその細い肩を揺らし叫び出したくなるほどに、何十分もただただ必死になって祈るその老人の姿は、この世界の残酷さを感じさせ、それはどうしようもなく空しくて悲痛な光景だった。

 

不安を受け止めてくれる家族はいないのか?

あるいは、最先端医療はどうした?社会システムは?

…結局、神もサンタクロースも河童も、信じるか信じないかの問題で、「信じる者は救われる」だなんて言葉がごもっともすぎて苛立ちすら感じたけど、何もできずに突っ立っている自分なんかよりもよっぽど神の方が有意義だ。

 

奥の院でのそんな悔しさと無力感に包まれた記憶と実感を、六本木の森美術館で開催している『村上隆の五百羅漢図展』に行ったとき、ふと思い出した。

http://www.mori.art.museum/contents/tm500/

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というのも、ここ数年ほどずっと「人間はどうして感動するんだろうか?」ということを、ああでもないこうでもないと考えていて、今のところの結論として「何かすがりつきたいモノに出会ったとき、人間は感動する」という仮説が自分の中にあったからかもしれない。その「すがりつきたいモノ」っていうのは、「(現実はこうだけど)ああだったらいいのにな、こうだったらいいのにな」という“希望”や“憧れ”と言い換えることもできる。(だから、ドラえもんはスゴイのです)

人間は、すがりつきたい言葉や物語、イメージと出会ったとき、そこに感動を覚えるし、日々の趣味嗜好などもこの「すがりつきたいモノ」に依存しているのかもしれない(意識的にせよ無意識的にせよ)なんてことを、村上隆の『五百羅漢図』を事例として引っぱり出して説明しようっていうのがこの記事の魂胆です。

 

①そもそも「五百羅漢図」ってなに?「村上隆」ってだれ?

 

まず、医療もインフラもまったく発達していない時代において、死がより身近だった時代において、人々が希望を見出した存在(すがりつきたいモノ)のひとつが羅漢でした。羅漢は、釈迦の弟子として人々を救済する存在だったのです。それが五百人もいるんだから、さぞかし頼もしい存在だったに違いない。当時の人たちは、病気や天災という現実に怯えながらも、彼らならどうにかしてくれるのではないか、してくれるに違いない、という希望を抱いていた。

あの老人が弘法大使・空海に対して感じていた気持ちと、五百羅漢という存在に感じていた人々の気持ちは、きっと同じなのだろうと。

 

そして、もうひとつ、村上隆の芸術作品は、オタクにとってのすがりつきたいモノ、“アニメ・漫画”をモチーフとしている。

例えば、村上隆の代表作・過去作品には『ヒロポン』と『マイ・ロンサム・カーボーイ』というのがありまして、こういう日本のアニメや漫画をモチーフとした作品を発表することで、海外でも高い評価を得ている。

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『Hiropon』



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『My Lonesome Cowboy』

(※おいおいなんだかツッコミどころ満載じゃねえか…って思った方は、どうしてこうなっちゃったのかって調べてみてくださいね)

 

でも、同時に、日本国内のオタクたちからはむちゃくちゃ嫌われている。

村上隆のtwitterを見ていると、Disられている本人がその批判ツイートをエゴサーチしてリツイートしているので、その嫌われ具合がよーーーくわかる…のですが…

で、どうしてこんなに嫌われているのかっていうと、村上隆の作品は日本のオタクたちの(or に対する)戯画化(批評)であるからで、個人的に村上隆すげーって思うのは、戯画化した等身大フィギュアを制作することによって結果として日本人そのものを描き出した・表現した・浮き彫りにしたこと。正確に言うと、日本のオタク層ってことだけど。

つまり、これは曲解ですが、twitterなどで村上隆を批判するオタクたちの存在も含めて、ようやく『Hiropon』や『My Lonesome Cowboy』などのアニメ文脈の村上隆作品は完成するのだろう、と。

 

私の大好きなYahoo!知恵袋の質問で、本気で恋したキャラが二次元で、本気で悩んでます。 最初に恋したのは「NHKによう… – Yahoo!知恵袋という質問があるのですが、

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。
自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。
あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。
特にあの学校のシーンは反則です。自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

 

オタクにとって、アニメの世界は、すがりつきたいモノなんです。

だからこそ、そこに感動が、心を抉るようなむちゃくちゃ強烈な感動が生まれるのだと思います。

現実が厳しければ厳しいほど、アニメに限らず、小説や映画など現実逃避としての芸術作品は、誰かにとっての大切なモノ(すがりつきたいモノ)になりえる。(脳みそが勝手にシュミレーションする)耐えがたい現実によって、すがりつきたいモノ(希望や憧れ)は生まれる。

すがりつきたいモノとして、生きる希望として、心の支えとして、“感動”や“美”が存在し、それをこの現実世界に生み出す術のことを“芸術”と呼ぶのだと、私は定義しています。

希望が途絶えたとき、人は絶望し、死に至る。

 

オタクにとって“アニメ・漫画”は大切なモノだけれども、それを村上隆は戯画化した。

そりゃ怒るよね、と。アニメはオタクたちにとって生きる希望(それが無意識だとしても)なわけで、それを戯画化される(オタク側からすればバカにされる)んだから、もうめちゃくちゃ反発するはずなんだ、と。

これは極論だけど、この「村上隆の戯画化作品とオタクたち」という構造の行き着く先は、シャルリー・エブド襲撃事件なのだと思う。

弘法大師・空海や五百羅漢、アニメやその他の芸術作品のように、預言者ムハンマドもまた、イスラム教徒にとっては大切なモノ、生きる希望として機能している。(宗教ってそういうモンかと)それを戯画化した(見方を変えればバカにした)シャルリー・エブドは、その反発を受けた。つまり、テロ。

 

世界という舞台で奮闘している日本の現代アーティストであり、1990年代にオタクにとって大切な“アニメ・漫画”をモチーフにした作品を作り、日本人(のオタク層)を描き出した村上隆が、14年ぶりに国内個展を開催しそのモチーフとして五百羅漢を選んだことは、東日本大震災を経験した日本人にとってかなり重要な出来事だと思うし、村上隆本人がどこまで意図しているかわからないけれど、それは村上隆が築き上げた文脈上での彼にしかできない唯一無二の芸術作品であり、ヒーローの必殺技にも似た爽快感とカッコよさを感じる。

しかし、それは同時に、五百羅漢が信仰されていた時代と比べて医療やインフラがよりずっと発達している現代において、どこまで人々の希望に、すがりつきたいモノになれているのだろうかという疑問も浮かぶ。六本木ヒルズという大都会のど真ん中、高層ビルの53階で開催されているというのはもはや皮肉にすら感じる。もはや、村上隆はそれすらも批評として作品や展覧会に内包しているのではないかと邪推(期待)してしまうほどに。

 

②誰かを救うために、「人はどうして感動するのか?」を追求したい。

 

つまり、現代においては、フィクションでは人を救えない。

そう思うことがよくある。現代アートもアニメも小説も映画も、その他の人を感動させるフィクション(虚構)すべて。

だって、現実はあまりにも無慈悲で理不尽で残酷で身体的だ。どんなにフィクションに逃避をしようとも、それは結局フィクションであって、人間はどこかで現実と向き合わなければならない。

 

 

しかし、

それでも。

そうであっても。

愚痴愚痴とああだこうだと理論を積み重ねて、なんだかんだと主張しつつも、

やっぱり私は芸術作品が好きだし、自分にとって大切なモノ(すがりつきたいモノ・感動)を自覚し(あるいは真摯に向き合って模索し)、自分の感性や美学を守りながら、時にはそれを武器として闘い、時には自由気ままに、時には破滅的に、自分にとっての大切なモノが社会との接点を持ち得るよう努力する芸術家という存在はむちゃくちゃカッコいいし、ヒーローに対する憧れや希望にも似たようなこの感情こそがまさに僕にとってのすがりつきたいモノなんだと思っている。

 

アート・アニメ・漫画・小説・絵本・写真・映画・音楽・演劇・ダンス・詩・俳句・ファッション・陶芸・建築・デザイン・ゲーム・インターネットサービス・飛行機・ロボット・義足・哲学・庭園・お笑い・書道・盆栽・花・数学などなどなんだってそうだ(随時更新)。自分にとって大切なモノ・心地いいモノを追求する人たちはカッコいい。たとえそうすることで、社会とのズレが生じて、燃えさかる炎をバックに愉悦的に高笑いするジョーカーのようになってしまったとしても。

 

少なくとも、人生を肯定できない人間にとって、そういった芸術活動は社会を生きる上での武器になりえると思うし、

芸術は、医療や社会インフラ、人間関係によっては救われない人たち、そこから零れ落ちてしまった人たちを救うことができるのではないかと願っている。

 

ていうか、“願っている”だけじゃなくて、

そうやって誰かを救えるように、“芸術”というモノをもっともっと追求していきたい。

 

理論だけじゃなくて、フィクションとしてじゃなくて、まるでインフラのように、まるでインターネットサービスのように、誰もが等しく利用できるように“芸術”という方法を模索していきたい。

fMRIあたりを使って個人個人の脳の動き・反応を調べて、「あなたにとっての快感原則はコレ!」みたいに具体的な提案をするとか…?…正直、今のところは全然見当もつかないけど…(※いい案ないですか)。

 

できるできないじゃなく、利益になるならないじゃなく、そっちの方がカッコいいって思っちゃったんだから、じゃあどうすりゃいいのか?ってまずは考えること。

誰かにとって大切だと思うモノや美しいと感じるモノが、また別の誰かにとっても大切だったり美しかったりするという奇跡。

それでいて、誰かが救われたりするんだから、これってもうむちゃくちゃ素敵すぎるじゃないですか。

そういうことがもっと当たり前になるような世界になれ!って、そっちの方がカッコいいじゃないか!って思うわけです。

 

宗教なき日本において、

人々の生き方が多様化する現代において、

個人個人が自分にとって大切なモノ(すがりつきたいモノ・感動)を軸として生きることはとても重要にもなってくる(と最後に無理やり社会的意義も挙げておきます…)。

 

さて、そんなこんなで、いつもどおりに、偉大な芸術家を引っぱり出して自分語りをするというアレな記事でしたが、私にとってはまさにこの芸術論こそがすがりつきたいモノなので、今後も大真面目に、必死に、血反吐を吐こうとも(っていうぐらいの気持ちで)、どうにかして実現させたい。

とはいえ、「人間はどうして感動するのだろうか?」という疑問は「人間ってなんだろう?」ということでもありまして、そういう意味では、「感動=すがりつきたいモノとの出会い」という仮説だとまだまだ違和感というか、手落ち感というか、説明しきれないところもあるので、同時進行でまたうだうだと考えていこうとも思っています。

 

 

映画を作るとか、見るとかっていうのは、希望を表明する行為でさ。その時の自分は幸せじゃないかもしれないけど、人生は幸せかもしれないって大声で言っているようなものなんだよ。幸せじゃない人だからこそ、作ったり、言ったりする権利があるってことだよ。by映画監督・細田守

 

(マイケル・ジャクソンは)みんなから支持されてステージにドンって上がるだけでみんな失神するぐらいの人なのに
すごい寂しそうな感じがここの寂しさとリンクさせて強く惹かれたのは自分に寂しいとか切ない感情があって
そこの琴線と震えた共鳴した部分があったと思います。byミュージシャン・星野源

 

人間とコンピュータの決定的な違いはモチベーションやビジョンがそこにあるかどうかだと思います。ここでいうビジョンとは、個人的なフェティシズムに基づく批判的な視野のことで、個人的な経験や身体性に基づく視座のことです。難しそうな言葉を使っていますが、一言で言えば、人生経験を通じて僕たちに生まれるこだわりのことです。by落合陽一

 

自分は、そういうものに鈍感だったのかもしれません。 しかし、自分がこだわるところはそこではないと思いました。by山海嘉之

 

 

じゃあなんでこんなエントリ書くよ。なんで時々日記じゃないこと書くよ。何故か。おれはこの世が少しでもおれにとって楽しい(「正しい」じゃねーぞ)場所になってほしくて書いているのだ。何人かはもしかしたらいるかもしれない。「うん、そこらへん気をつけて書けばもうちょっと映画評面白くなるかな」って考える奴が。そういう奴の存在におれは賭けてるんっだつーの。「個人の自由だと思います」とか抜かしている間は何も変りゃしねえ。いい言葉だな「個人の自由」って。たいそうなこった。くたばれ。おれはおれにとって読み応えのある文章がすこしでも増えてほしくてこういうことをやってるんだ。おれのためだ。世界がおれにとってちょっとでも楽しい場所になりゃ万々歳だ。あのな、おれは世界を変える気で書いてるんだよ、大袈裟に言えば。いや大袈裟じゃないか、ホン トの話だからな。スルーされない何人かに届いて、その人間が面白い文章をはてなで書こうとしてくれりゃおれにとっては大勝利なんだ。おれは明日死ぬかも知れないし、そういう「個人の自由ですから」なんておためごかしに付き合っているほど暇じゃねーんだ。もっともっとおれにとって面白くて興味のある文章が読みたくてたまらないんだよ。by(誰も信じるな – 伊藤計劃:第弐位相