詩人:東田直樹

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跳びはねる思考——22歳の自閉症作家が見た世界

人の目に映る自分の姿を想像しただけで、

この世から消えてしまいたい気分になります。

僕が抱えている心の闇は、どんな魔法をかけても消えません。 by東田直樹

 

 

もしも、自分の意思に反して、身体が勝手に動いてしまうとしたら。


もしも、

“自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、

じっとしていることも、

言われた通りに動くこともできず、

まるで不良品のロボットを運転しているようなもの”だとしたら。

 

東田直樹という人の詩を知り、その人のことを知って、自閉症を知った。

詩人・東田直樹は、自分の意思に反して、一般的に「奇妙だ」と思われるような行動をとってしまうし、自分の思い通りに話すこともできない。そして、それを自覚している。残酷だと思った。

「私は不良品のロボットの中に閉じ込められているんだ!」という悲痛な叫び声を上げることも、泣きながら必死に助けを求めることもできない。透明で堅牢な檻に閉じ込められてしまったがゆえに誰にもその声が届かないかのような絶望感。何度も何度も、血が出るほどに、その透明な壁を両拳で叩いて音を鳴らそうとも、外側にいる人たちには決して届かない。

それが自閉症を知ったときの私の印象だった。

 

 

自閉症の僕はいつも、視線に踊らされています。人に見られることが恐怖なのです。人は、刺すような視線で僕を見るからです。
障害を抱えているために、目に見える言動が、みんなとは違うせいでしょう。まるで原始人のようだと、自分でも思っています。
理性で感情をコントロールし、会話によって思いを伝え合う現代社会は、僕にとって異次元に迷い込んだかのような世界です。by東田直樹

 

それでも、東田直樹は、声ではなく文字によって、詩や絵本を通じて、自分の感覚を言葉にしている。

それが、詩人であり、絵本作家であり、自閉症でもある東田直樹というヒーロー。

 

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跳びはねる思考——22歳の自閉症作家が見た世界

新幹線に乗っている時の雨は、とても神秘的です。
「横殴りの雨」という表現がありますが、横一線に流れる雨粒が見られるのは、新幹線に乗った時だけではないでしょうか。

それだけ早いスピードで移動しているからだと理屈ではわかります。
けれども、僕にはこの雨が、特別なメッセージを伝えてくれているような気がしてならないのです。

雨は普通、空から地面に向けて落ちていきます。その時々で強さは違いますが、一定のリズムを持っていると思います。

僕は雨音が、時を刻んでくれていることに気づきます。そして、知らぬ間に数を数え始めるのです。体の中を突き抜けるようなリズムが耳にこだまします。

しかし、新幹線の窓を打ちつける雨に、リズムはありません。
まるで、人の涙みたいに、ぽろぽろとこぼれ落ちたり、さめざめと泣いたりするのです。

ひと粒ひと粒が、自分の意思で窓に張り付いてきたかのような動きで、僕の目を釘づけにします。
ただの雨粒なのに、それぞれが違う速さで流れ出したとたん、神様から命を与えられた存在に変るのです。

感動とは、自分が知らなかった世界を見せてもらえた時、感じるものなのでしょう。
泣いている人を励ますように、僕は新幹線の窓を見つめます。

雨は、まだやみそうにありません。
新幹線の窓は、濡れた瞳に似ています。

やがて、雲の切れ目から、太陽の光が差し込むと、外の景色がくっきりと現れました。

新幹線の窓にくっついていた雨は、もう全て消え去ってしまいました。
雨粒は、空に帰って行ったのでしょう。

新幹線の窓から見える空は、次々に形を変えて、心をなぐさめてくれます。

涙の訳をいつか教えてもらいたいと、僕は願っているのです。

「新幹線の雨」 by東田直樹

 

何かに感動するというあの感覚は、たぶん例えるなら、台本を知らずに演劇の舞台に立たされたとして「どうやって演じればいいのか」を教えてもらえたときの感覚に近いのかもしれない。舞台のど真ん中で、衆人観衆に晒された状態で、何をどうやって演じればいいのかわからず右往左往しているときに、舞台の袖からカンペが出されて自分の物語を演じられるときの安心感。

いや、そうじゃなくて、安心感なんてもんじゃなくて、もっともっと根源的な、出会った瞬間にそれにすがりつかざるを得ないような、どこか必死で泣きだしたくなるような感覚。

もちろんこれは単なる比喩なんだけど、どう振舞ってどう選択をすることが正解なのかなんてさっぱりわからないこの世界で、選択次第では“死”ぬかもしれないこの世界で、僕らはどうしたって不安感や恐怖感に押し潰されそうになる。人間というのは、根本的に、客観的に、意味のない世界で意味を求めてしまうから。

だから、腕の動かし方から笑顔の方法、愛の告白まで、人間はすでにある社会の振る舞いを模倣する。

台本とは社会であり文化であり常識であり宗教である。

人間は、正解のない不安と恐怖に満ちた世界で、「こうすればいい」という台本にすがりついている。

 

だとしたら、

であるならば、台本通りに振舞えない東田直樹は、一体全体何にすがりつけばいいのだろうか?

 

 

感動は、個人それぞれが直面する耐えがたい現実を生き抜くための、脳が生み出すフィクション(意味)なのだと思う。

現実とは違う場所にある何か。それは“希望”とか“理想郷”とか“天国”とかって言い換えてもいい。

個人にはフィクション(現実逃避)が必要だ。現実(ノンフィクション)に対する現実逃避。

IMG_5437-2漫画『プラネテス』より

 

例えば、

引きこもりでコミュ障(現実)のオタクがモテモテな男子生徒が主人公のアニメ(非現実)を好きになり、高度経済成長の終焉と共に安定企業も安定じゃなくなる(現実)と「フリーランス」や「ノマド」などのキーワードで別の働き方(非現実)が騒がれたり、映画『アメリカン・スナイパー』のモデルとなった米兵のクリス・カイルが人を殺したという現実に耐え切れずアメリカの正義(非現実)を信じたりする。

 

人間なら誰しも、大なり小なり、状況や周辺環境に応じた感動を持っている。生存戦略として。

他者を殺してしまった兵士は、人殺しを正当化してくれる“言葉”や“物語”にすがりつく。

戦場以外に人殺しを肯定する言葉はないからこそ、日常に帰還した兵士はPTSDを発症する。

そして、“言葉”や“物語”のある戦場へと舞い戻る。

 

現実の残酷さに対応して、不安や恐怖をやわらげる感動の度合いも深くなるし大きくなる。

敵(ヴィラン)が強ければ強いほど、ヒーローも強くなるみたいな、そんなイメージ。

 

つまり、

自閉症の人たちが生きている現実(ヴィラン)はどれほどだろうかと想像する。

透明な檻の中でどれだけ必死になって叫んでも自分の声は届かず、他人から“刺すような視線”で見られるという現実は、どれだけ残酷で凶悪なのだろうかと想像する。

そして、

なによりも、

東田直樹がすがりつける“言葉”や“物語”は、この世界にあるのだろうかと。

 

理性とは、善悪、真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識などを自分に与える能力だと考える方も多いかもしれません。理性的な行動が見られない人たちには、人間らしい心がないと、主張される方もいるでしょう。それでは僕たちのような人間は、生きていくことができません。by東田直樹

 

例えば、一般的な「理性」の概念(=言葉)によると、自閉症者は、人間ではないことになってしまう。

東田直樹は、人間ではないことになってしまう。

“言葉”や“物語”がないという問題。

この問題は、生きづらさを感じているLGBTの方々にとっての問題にも繋がってくるように思う。

 

通常は行動によって、その人が理性的であるかどうか判断されますが、理性というものは、生まれながらに一人ひとりの心の中に宿っているものだろ信じています。(中略)理性とは、行動を制御する力ではなく、どのような人生を送るのかの指針ではないのでしょうか。どれだけ悲しいことがあっても、自暴自棄にならない精神力ではないかと思うのです。by東田直樹

 

結論から言うと、

信じるに値する“言葉”や“物語”がないのなら、それを自分で作り上げるしかない。

私は、この行為・過程こそが“芸術”なんじゃないかと思っている。

脳が勝手に生み出した現実逃避(=希望)としての感動を、言葉にして物語にして作品にして、その輪郭線をよりはっきりとさせる行為。

 

しかし、そうすると、もはや想像を絶するわけだけど、

東田直樹は、一体全体どれだけの言葉や物語を積み重ねて、不安感や恐怖感を払拭できるような、すがりつける“何か”を生み出しているのか。

あるいは、どれほど深くて大きな感動(ヒーロー)を得ることで自分の生を肯定できているのかと。

 

東田直樹のような、自分にとっての感動の輪郭をより丁寧に探し求める芸術家は、きっと冒険家みたいなもんで(そして、本来なら、人間ならばきっと誰だって)、過酷な旅をひとりで歩んで、ボロボロになりながらも誰も到達していない“どこか”に辿り着いて、そこにあった“何か”を引っ掴んで、帰郷して、「こんなんありましたよ」って、この世界の清濁を飲み込んで、彼らが信じるに値する言葉や物語や作品を生み出しているのだと思う。自分自身のために。

 

僕にとっても、心に苦しみを抱えた状態は大変ですが、だからと言って辛いだけのものではありません。感情の渦に飲み込まれた瞬間、僕は僕でなくなります。助けてほしいと心の中で叫びながらもがき続けているのに、誰にも気づいてもらえません。最初は周りが見えなくなるほどの苦しみですが、次第に自分を取り戻すことができます。
この時の気持ちは、悩む前の僕とは違います。それは悲しみや苦しみがなくなったわけではなく、荒れ狂う海の中、自力で岸まで泳ぎ着き、そこから嵐が過ぎ去ったあとの穏やかな海を眺めている心境だからです。見渡すと、海の水がにごっていたり、漂流物が流れていたり、元の穏やかな海に戻るには、少し時間がかかりますが、僕は前と同じように呼吸しています。
(中略)
けれども、全てが元通りになることを強く望んではいけません。
刻々と過ぎていく時の中で、景色は常に変化しているからです。by東田直樹

 

だけど、私たちは人間だから、両親から生まれて、肉体があって感情があって、どうにも思い通りにならない世界を生きていて、最後は死ぬというところは変わらない。だから、私は、彼の苦しみの心境に共感できるところもあると思っているしそう感じているしそう信じたい。

一方で、感動は状況や周辺環境に適応して生まれるからこそ、人それぞれ違う旅になるし、違う“何か”を発見するし、違う“何か”になっている。荒れ狂う海を比喩として持ってくることに、それは私の中になかったモノとして、彼がより遠くまで行ってそこにあった景色を見てきてくれたんだという、感謝とか尊敬とか、あるいは、なんだか抱きしめたくなるような愛しさを感じます。

 

何かに感動したりとか何かを好きになったりとか何かに心がすがりついたりとか何かを信じたりするということは、根本的には自分で選べないという残酷さがあると思うんだけど、それでも、その何かに触れているときはどうしようもなく幸せだったりすべてを肯定したくなっちゃったりなんとなく居心地よかったり誰かにその感動を伝えたくなっちゃったりするわけです。

そういうのって突き詰めると結局どこかで世間とズレちゃってて「おいおい、不器用だな。しっかりしろよ」って思うけど、僕はそんな真面目で丁寧で無邪気でどこか必死で切ないようなスタンスそのものをまずはいちど愛したいと思っている。

現実に対して生まれる「そうせざるをえない。けど、なんか好きだ」というシンプルな感情はとても大切だと思うから。

ジャンヌ・ダルクやヘレンケラーを突き動かしたモノはこの人それぞれが持っている何かなのではないかと妄想したり期待したりもします。

こうあるべきだと誰かが言ったどうにもしっくりこない言葉なんかよりもこの感動という実感は遥かに強烈です。

 

「ペコ、いつも言ってた。
相手が強いほど高く飛べるって」
byアニメ『ピンポン』

 

敵(現実)が卑劣で理不尽で凶悪であればあるほど、ヒーローはいつだってそいつらに打ち勝つほどの正義(フィクション)を見せてくれる。

僕は、芸術家の姿に、少年漫画のようなヒーロー像を重ね合わせてしまいます。

だから、詩人・東田直樹もまた、僕にとってはヒーローのひとりなんです。

 

 

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じゃあなんでこんなエントリ書くよ。なんで時々日記じゃないこと書くよ。何故か。おれはこの世が少しでもおれにとって楽しい(「正しい」じゃねーぞ)場所になってほしくて書いているのだ。何人かはもしかしたらいるかもしれない。「うん、そこらへん気をつけて書けばもうちょっと映画評面白くなるかな」って考える奴が。そういう奴の存在におれは賭けてるんっだつーの。「個人の自由だと思います」とか抜かしている間は何も変りゃしねえ。いい言葉だな「個人の自由」って。たいそうなこった。くたばれ。おれはおれにとって読み応えのある文章がすこしでも増えてほしくてこういうことをやってるんだ。おれのためだ。世界がおれにとってちょっとでも楽しい場所になりゃ万々歳だ。あのな、おれは世界を変える気で書いてるんだよ、大袈裟に言えば。いや大袈裟じゃないか、ホン トの話だからな。スルーされない何人かに届いて、その人間が面白い文章をはてなで書こうとしてくれりゃおれにとっては大勝利なんだ。おれは明日死ぬかも知れないし、そういう「個人の自由ですから」なんておためごかしに付き合っているほど暇じゃねーんだ。もっともっとおれにとって面白くて興味のある文章が読みたくてたまらないんだよ。by(誰も信じるな – 伊藤計劃:第弐位相