コーデノロジスト:荒川修作

荒川修作について。

芸術家、建築家、あるいはそれらを統合した「コーデノロジスト」。

荒川修作は『天命反転』というキャッチフレーズを掲げて、「死なないこと」の実現を、あるいは「人間はいつか死ぬ」という常識を反転させよう(=克服しよう)とした。

荒川修作の核心を、頭の中にある核心を、この現実に生み出した結果として、

『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』

『養老天命反転地』

『三鷹天命反転住宅』が誕生した。

 

・遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体

http://www.kyoto-np.co.jp/kp/newfun/contents/sun/art_newworld/img/art14-03.jpg

http://www.kyoto-np.co.jp/kp/newfun/contents/sun/art_newworld/art14-03.html

養老天命反転地

http://hakubutu.la.coocan.jp/wp-content/uploads/2008/12/youro1.jpg

http://www.realpoint.co.jp/robita-shop/blog-hiroo/?p=2582

・三鷹天命反転住宅

http://pds.exblog.jp/pds/1/200512/18/57/b0015157_2328510.jpg

http://tokyomachi.exblog.jp/3922081

 

スケールがすごい。あと、ものすごいワクワク感もある。ひとりの人間の妄想ともいえるようなアイデアが、これほどのスケールとワクワク感のある「モノ」を作り出した。しかも、その出発点が「死」であるという奇妙なねじれ。「こうなんじゃないか?」という核心が現実を侵食するというイメージ。

 

①「天命を反転させる」という核心はどこから来たのか?

 芸術家は(そして、人間なら誰でも)自分にとっての興味関心・好き嫌いや問題意識があると思うのだけど、荒川修作にとってはこの『天命反転』というフレーズこそが、その興味関心(つまり快感原則=核心)だった。荒川修作は幼少の頃から、手術のお手伝いをするほどお医者さんと交流があったようなので、「人の命を救う」という意識はずっとあったのかもしれない。あるいは、10代の頃に「お前は肺結核だ。あと半年も持たない」と宣告されたこともあって(誤診)、死への対抗意識みたいなモノが徐々に芽生えていた可能性もある。僕としては、荒川修作は究極的なあまのじゃくで、とりあえずなんでも否定したい人だったんじゃないかな、という物語が好き。とりあえず、荒川修作の『天命反転』に対する興味関心は、子どもの頃からずっとあったのでしょう。

 

②さて、「どうやって天命を反転させるのか?」

 「死」をどうやって克服するのか?もっと言えば、永遠に生きるためにはどうすればいいのか?ということを必死に考える。荒川修作は、そこで「人間の身体→建築」を使えば可能性があるんじゃないか?という結論に至る。そう考えた理由はいくつかあると思うんだけど、大きくわけて2つほど(あくまでも僕の想像ですが)。

 1970年代に、生まれたての赤ちゃんを10年間研究していたことがそのひとつ。荒川修作は、いわゆる「自我」と言われるもの、人間の人格形成は外的環境からの影響が大きいことに気付いた。このあたりは少し専門的な話になってしまうので「ちゃんと勉強しないといけないなあ」と思うんだけど、赤ちゃんは自分と他者(あるいは、机とか床とかも)をからだを動かすことで認識する。手を動かしても床が動かなかったら「あ、これ(床)は俺じゃねえのか」と理解する。人間は成長していく上で、無意識のうちに外的環境から得た情報によって人格を形成していく。さらにいえば、人格とは脳であり、脳にとっての外的環境はからだをも含むことになる。このような経験を通じて、荒川は身体・建築(外的環境)に興味を移していく。

 そして、もうひとつの理由としては、西洋美術に精通していたこと。元々、幼少の頃から(上記のお医者さんの命令で)デッサンをしていた荒川は、お医者さんの奥さんが美術家だったことや「お前絵が上手いから絵描きになれ」とか言われて育ったことから、自然と美術の道へ進んでいた。この頃の荒川にとって、自分の核心を現実に落とし込む手段は、絵画や彫刻などの美術だったわけである。こういうのとか。

・『抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン』

http://artnewsgau.exblog.jp/7281737

 だけど、そのうち、荒川は美術(絵画とか彫刻とか)をやめる。

 絵画や彫刻などの芸術は、結局、フィクションだからだ。

 

考えてもみろ。あのレオナルド(ダ・ヴィンチ)がどんなに素晴らしい絵を描いたって、指一本入れられないだろ。だからフィクションだな。そうすると信じるか信じないかという信仰の問題になる。by荒川修作

 

「あの人すごいキレイ。だけど私大嫌い」って人いるだろ。あれは何を言おうとしているか。そんなに美しかったら好きになればいいだろ。だけど好きになれない。そういうことは前からあったんだ。だけど前はそれを否定していたんだ 。美学をつくられたということは、制度を、ものさしを作られたということだ。それによってどのくらいこれは素晴らしいかということが決められる。そのために心とか魂って最高峰の言葉がどうしても必要だった。レオナルド ・ダヴィンチがどうして素晴らしい絵描きかというと、「人間の心をそのまま写しだした絵を描いた。モナリザを見てみろ。自分の夢の中にいるようだ」とかなんとか言うだろ。そういう制度になっている。催眠術にかけるんだ。それでみんな「あーなるほど。それでいいんだな。それでこんなに高いんだな 」と思うわけだ。by荒川修作

 

 欧米人は制度を作るのが得意だ。言葉によって世界を規定する。芸術も、西洋美術史のひとつの流れによって制度になった。美学という言葉によって、「美しさ」にルール(=制度)を作った。しかし、どんなにルール上は高得点でも、あなたにとって美しくなければ美しくないのだ。芸術は心の感動によって生まれるモノだと思うけれど、「これはこれこれこういう理由で素晴らしい」という”言葉”を重要視する作品が多くなった。

 その結果、「アートは難しい」「アートはわからない」となる。感性と理性があるとすれば、理性重視。「そのアイデアはおもしろいね」「その発想はなかった」と、他者を唸らせるようなアイデアを元にして何かを作ること。そういった言葉によるアートをコンセプチュアル・アートというのだけど、そのアイデアがわかればおもしろい。たとえば、ジョセフ・コスースというアーティストの『One and Three Chairs』。つまり、この作品が意味していることをすぐに理解することができたら、アート鑑賞に多くの人が求めるような「観たときに感動」することができるはず。このブログhttp://pinkblack.exblog.jp/7773056の解説(?)が、コンセプチュアル・アートの説明としてわかりやすい。いろんな意味で。なんというか、認識論とか存在論とかについていつも必死に考えている人がいて、その人が『One and Three Chairs』を見たら、「なるほど。上手いね」って思えるんじゃないかな。西洋人が好む芸術(=現代アート)のひとつの側面を大雑把に説明すると、だいたいこういう感じ。

http://pinkblack.exblog.jp/7773056

 

 つまり、外的環境をコントロールして、より生きやすい環境(建築)を作ること。同時に、言語(意識)に重点を置く(西洋的な)アート・システムを壊すための、からだ(無意識)に重点を置いた「芸術」(=建築)を作ること。これが、荒川修作にとっての芸術であり、彼の核心だった。

 

建築とは、「ワタクシ」とpronunce(宣言する)したときに浮かび上がってくるモノ。それをなんとか外側に作り上げること。構築すること。そして、その使用も考える。それは建物とは違う。by荒川修作

 

 この荒川修作の発言はおもしろいなーと思っていて、僕が考える「芸術」はずっと結局フィクションだったわけだけど、そのフィクションを他者が利用するところまで想定するべきだ、というデザインのような概念(=建築)を導入している。フィクションに他者(のからだ)が介入した途端、それはフィクションではなくリアルとなる。そして、からだ(あるいは五感)と相性がよいのが「建築」。ざっくり言えば、指一本はいらないレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画に対して、建築は人間のからだがまるごとそのまま入り込む。

 ここで、ようやく、荒川は「天命」を反転させることになる。『遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体』『養老天命反転地』『三鷹天命反転住宅』を作ることによって。まず、西欧的なアートという常識に対する反転が存在する。(実は、「人間は誰しも死ぬ」という“常識”の反転こそが荒川修作の目的だったのではないか)西欧人は元々、身体を軽視する傾向にある。そこに、「身体こそ大事だ」という概念をぶつけて、さらに、建築という美術館(西欧的アート鑑賞法)に収まらない芸術をぶつけた。

 そして、もうひとつの反転は、外的環境をコントロールすれば「死なない人間」も現れるんじゃないか?という「天命」への反転である。つまり、人間が死なない(少なくとも、より長生きできる)ような外的環境の条件が実はあるんだけど、それに僕たちはまだ気付いていない(のかもしれない)。その条件を探しだして、その「死なない」条件にそって生活空間(外的環境)をコントロールすれば、「天命」を反転できるのではないか?という実験である。荒川修作がその実験で重視したのが、「からだ」だった。西洋第一主義のなかで忘れてしまった「からだ」の大切さ。からだは正直者で、理屈では理解していても嫌なモノは嫌だと叫ぶ。意識では捉えきれないストレスが蓄積すると身体が壊れる。気がつけば顔にニキビできていたり。だから、僕ら人間は、「からだ」を持っていると改めて理解することが大切だ。たとえば、『三鷹天命反転住宅』の床はデコボコしていて、正座するのも一苦労だった。ふだんは“座る”ことを意識しない(お尻のどこどこに体重をどれだけかければ安定するか?など)けど、『三鷹天命反転住宅』の床はむちゃくちゃ意識させられた。そういったトラップのような仕掛けが、荒川修作の建築には散りばめられている。

 

たくさんの無名の現象がぐるぐるあってそれが環境を作っている。いろいろな現象をどれくらい積み上げたら、どれくらい構築したら、一体人間は死ななくなるのか、ということをやろうとしているんだ。by荒川修作

 

 荒川修作は人生をかけて天命を反転させようと奮闘したわけだし、人類の極限に挑戦しているかのようにも思えるけど、「やっぱり芸術家は考えてることが他の人とは違うね」とは思ってほしくない。荒川修作はたまたま「死」というモノに向かったけど、何に興味が向くか?ということは、僕はピーマンが嫌いだけど、あなたはピーマンが好きなんだね、ぐらいの差異でしかない。好みの問題だ。芸術の「美しさ」はあなた自身が決める(感じる)ということ(それを、荒川修作は伝えようとした)。芸術や美術は、いつしかルールによって、その美しさを決められちゃったけど、自分が美しいと感じるモノを、自分が美しいと感じる手段で表現すればいいだけ。その結果として、ワクワクするような、子ども心くすぐるような、3つの空間(公園であり住宅であり)を表現した荒川修作がすごく好きだ。「どうすりゃ人は死ななくなるんだ?」と必死になって考えて悩んで、その頭のなかの「何か」を、社会との接点を持ちえるようにした表現が、荒川にとっては「建築」という手段だったということ。

 


映画『死なない子供、荒川修作』予告編 – YouTube

そして、2010年に、永眠。